音楽家・原口沙輔、2万5000字インタビュー 扉をひらきつづけてきた約22年を読む

LINEで送る
Pocket

音楽家・原口沙輔氏といえば、21歳の若き天才だ。才能に年齢は関係ないとはいえ、2018年に15歳でワーナーミュージック・ジャパンよりメジャーデビューをはたし、2023年に独立後も合成音声ソフト・UTAU「重音テト」の「人マニア」「イガク」や、「学園アイドルマスター」の全体曲「初」などで人気を博すなど、ここ数年ずっと八面六臂の活躍を見せている。

PANORAの取材領域で見ても、「人マニア」は課題曲的にVTuberがこぞって歌い、パラレルシンガー・七海うららへの「それはうららか?」楽曲提供、にじさんじ・月ノ美兎がボーカルとして参加する「贋ト旧称」の公開といった具合に関わり合いが深い。

彼の音楽人生には、どんな背景があるのか。そして何を目指して創作しているのか。原口氏と人生がニアミスしていたというライター・草野虹氏にインタビューをお願いして「今」を語っていただいた。

ちなみに原口沙輔氏は、5月21日に誕生日を迎え、今年で22歳を迎えた。

子供の頃にYouTubeに音楽紹介動画を作って投稿してました

― 今回はインタビューを受けていただきありがとうございます。自分が喋ってるPodcastやSNSのなかで原口さんの『アセトン』について話してたときがあって、そこにリプライを頂いたのが最初の出会いだったと思うんですが、そのときから「ちゃんとした場でインタビューとかしたい」と思っていて、ようやく今回叶いました(笑)

原口 いえいえ。自分ももともと草野さんの記事とかを僕は読ませていただいてて、じつはPodcastも聞いてたりしてます。その辺含めて今回お話できるのは、自分も嬉しいです。

― さっそく始めていきたいんですが、そもそも生まれは四国のほうでしたよね?

原口 そうです。愛媛出身で、2003年生まれです。

― ということはもう22歳とかですよね。先日Kanariaさんとのコラボ配信でも年齢やお互いについてお話されていましたが、まずなにより「若い」という驚きの声が多かった。

原口 彼は1個上ですね。

― もう生まれたタイミングで家にパソコンがあった?

原口 ありました。父の仕事用のパソコンがあって、仕事が終わったら自分でちょっと遊んでみるみたいな感じでした。3歳くらいだったか、ドラえもんのホームページにアクセスして、釣りのゲームとかやってましたね。

― Yahooキッズのゲームとかじゃないんですね。

原口 うちがGoogleユーザーだったんです。Appleを使っているのにわざわざデフォルトのブラウザをGoogleにしてたくらいで、学校でパソコンを使うときも、みんながそのまま検索しているなかで、Yahoo!でGoogleと検索かけてからそこを使うくらいだったんです(笑)

― こんなこといったらあれですけど、厄介というか、マセているというか。

原口 いやぁ……Yahoo!のホームページってちょっとわけわかんすぎるなと(笑)

― 言わんとしたいことはわかります(笑)とはいえ、Googleを当時から使っていたと。

原口 あわせてYouTubeですね。まだ日本語対応されていなかったころから見てました。

― この言葉でまとめちゃっていいかあやしいですが、まさにネットネイティブですよね。下手すれば小学校の時は文字を書くのと同じくらいキーボードでも文字を打てていたわけで。

原口 でも、そういうのはちょっと特殊ではありました。自分の世代だと小学校ひと学年全体でみても4~5人くらいで、共通の話題で話せるのもそれくらいしかいないので、結局そのメンツで集まって話してましたよ。

― 100人から200人いてその人数なら、さすがにマイノリティ寄りですよね。

原口 そうですね。しかも集まっていたメンバーも、例えばゲーム実況してたり、ゆっくり音声実況を作って投稿してたやつもいました。ほんとによくいたなと思います。

― 小学校でゆっくり実況を作ってた!?

原口 他にも色々な子がいて、みんな何かしらやってたんですよね。

― 原口さんもそういった投稿動画を作られていたんですか?

原口 YouTubeに音楽紹介動画を作って投稿してましたよ。「自分の好きな曲を紹介します!」「これこれこういうのです!」といって終わるという、なにか紹介しているようでしていないくらいの内容だったと思うんですが(笑)それが10歳とか11歳、12歳のころだったと思います。

― その頃にはすでに音楽を聞いて好き・好みがあったわけですね。音楽と出会ったきっかけはなんでしょうか?

原口 音楽と出会ったきっかけは完全に父親と母親ですね。テレビがそもそもついていなくて、ずっと音楽がかかっている家だったんです。レコードとCDをどちらもかけていて、自然と僕から「なんていう曲?」といって教えてもらいながら聞いてましたね。

― 当時はどういった方を聞いてました?

原口 父が坂本龍一さんがとても好きで、その影響でよく聞いてました、その周辺のバンドやプロジェクトも含めて。母はそういったタイプではなく、J-POPやヒットソングが好きでしたね。両親とも音楽とは関係のない職業に就いてましたし、単にめちゃくちゃ音楽が好きなリスナーだったんですよ。

― とはいえ、愛媛で音楽のライブを見るという経験は幼い頃はなかったわけですよね?

原口 ぜんっぜん来ないです。それこそ香川や高知とかによく来るライブハウスはあるんですが、愛媛にはそういった場所が当時なかったです。たぶん最初に見たライブも、バーみたいなところに連れて行かれて、そこで聞いたバンドのジャズ演奏とかになるのかなと。あとはもう、結婚式の披露宴での出し物とか?(笑)

― ここまでのお話を聞いていると、内向的でインドアなイメージがつくんですけど、じつはダンスを習っていてアメリカのほうに行かれたと聞きました。これはどういった流れでアメリカに行くまでになったんでしょう?

原口 ダンスは、そもそも家で流れていた曲に合わせて勝手に体を動かしていたところから始まっているんです。動きが妙に音とマッチしているんじゃないか?っていうので、両親が面白半分でダンスのビデオを買ってきたんです。

そのまま僕に見せていたら、見事にハマってビデオを真似て踊るようになったみたいで。それが2歳とかの頃で、そのまま習い事を習う感覚でダンス教室に行くようになったんです。とはいっても、ダンスと言っても色々あるわけで、「これじゃないわ」といいながらやめたり掛け持ちしながら色々行ってたくらいだったんです。

そんなとき、ニューヨークでも有名なダンサーが開いているダンス教室があって、「ニューヨークまでツアーみたいなのやるけど、行きますか?」みたいなことを言われて、二つ返事で「行きます!」と答えたんですよ。ただこれ、その人に聞かれて自分が勝手に言っただけで、家に帰ったときに両親に伝えたらすごく怒られましたよ(笑)

― そういうのありますよね。習い事先で勢いで返事して、そのあと面倒なことになるみたいな(笑)

原口 そのまま僕がめちゃくちゃ説得して、なんとか「父親同伴でなら」ということでアメリカに行ったんです。本場ニューヨークの人たちからレッスンを受けていたんですけど、空いている日にアポロシアターへ行ってみようということになりまして、現地に行ったんです。

たまたま休憩中でBGMが流れていて、そのなかでもみんな踊っていい感じの雰囲気だったんで、自分もその輪に混ざって踊っていたら、スタッフの人がやってきて「この子は出たほうが良い!」と急に言い始めたんです。

「ちょっと!この子の保護者いる!?」みたいなノリで周囲に話して、当時の先生が呼び出されて色々話した結果、水曜日にオーディションライブがあるから来てほしいと言われた。これがアポロシアターで毎週水曜日に開催されている「アマチュアナイト」っていうイベントで、90年以上にわたって開催されているイベントだったんです。

― そのイベントに出演されて、みごとに優勝された。このときおいくつでしたか?

原口 10歳、11歳とかですね。

― 信じられないですよ。子どもの思いつきで行った先で……

原口 これが大会を目指すとかですごく熱心に目指していた舞台だったら、いまでも熱く語れたとは思うんですけど、じつはすごいことをした!という実感がないままだったんです。ダンスを踊らなくなったのも、なにか大きなきっかけがあったわけじゃなく、自然と踊らなくなった、といったほうが正しいかなと。

― ダンスよりも音楽を作る方だったり別のことに興味が向いた?

原口 そうですね。5歳の頃にはすでに音楽のリミックスみたいなことをしていたので、だんだん制作の方に興味が向いていったのはその通りだなと思います。

自分は小学校入る前くらいからSoundcloudがすごい好きだった

― このときが2014~15年ごろで、中学に入る直前の出来事です。そのまま数年後にはメジャーレーベルへと進みます。これはどういう風に声がかかったんでしょう?

原口 少し長くなるんですが、5歳の頃からDAWをずっとやっていたり、DJや機材にすごい興味があった時期があったんです、そのときにNative Instrumentsのドラムマシーンやサンプラー、MPCにすごくハマってた時期があったんです。たぶん小学校2年生くらいだったかな?

― 友だちに見せるとかネットに公開するとかそういうの関係なく、とにかく音が出て楽しい!みたいな?。

原口 そうですそうです。ガンダムとかミニ四駆とか、そういったところでハマるのが間違ってそっち行っちゃったのかもしれないです。でも叩くと音が出て光ったりして、遊具やおもちゃとしての面白さもたぶんあったと思います。

そんな感じで音楽を作ってて、小6のときに大会みたいなのが久々に開催されるというので参加したところ、そこで準優勝を取りまして、そこで楽器メーカーさんや機材の方々、DJやトラックメイカーさんと繋がりができるようになったんです。

そのあと中2のころに「東京のオフィスに来ませんか?」と言われ、せっかくだし他の予定もなにか合わせて小旅行のようにして東京にいかせてもらったんです。しかも海外のDJの方から「日本に来るから会おうよ!」というインスタのDMですごく軽いノリで言われてたりして。

でも行ったら行ったで、その海外DJと連絡がつかなくなっちゃってキャンセルになったんですよ。やるっていうんで機材は持ってきちゃってるしどうしよう……とおもったときに、路上演奏をやってみたんです。

MVに使えないか?と思ってカメラで撮っていたところ、見ているひとの中にもカメラで撮ってた方がいらっしゃって、その方がツイッターに動画をアップしたらしく、そこからもりあがって……。それがかなり再生されたようで、メディアさんからの取材があり、メジャーレーベルの方から数社DMをいただいたりして……

― その流れでメジャーレーベルと契約された、と。

原口 そうですね

― いまお伺いしてて「天才はいる。悔しいが。」っていう言葉を思い出しました(註:JRAが2011年に制作した日本ダービー・トウカイテイオーのCMで使用されたキャッチコピー)ということは、ダンスをしたり遊び心で音楽を作っていて、習ったことはいちどもないということ?

原口 そうですね。なんか……感性で全部やってきた、みたいな。

― 小さい頃から段階を踏みながら、周りを巻き込んでさまざまな出来事を生み出していったなと思うんですけど、たぶん自発的に決断したなと思えるのが、N校に行かれたということだったと思うんです。学校としてN校を選んだ理由・決め手になったのはなんだったんでしょう?

原口 シンプルに学校が辛かったからです。先程の話でおわかりいただけると思うんですが、中学の途中からすでに仕事になり始めてて、ほとんど行けなかったんです。たぶん半分くらいしかいけなかったのかな。

― ご両親的にはどうだったんでしょう?

原口 両親は割とやりたいといったことを認めてくれていました。というよりも、いろんな出来事がありましたが、全部実力で見せてきたという部分が大きかった。自分が「やりたい」といったことをちゃんとものにしてきたんです。それに適当にやってるとバレるし、もちろんダメって言われるわけで、筋が通っていればオッケーという感じであったんですよね。

学校側にもしっかり話して理解は得られて、そこで理解してもらえたのはありがたかったですね。

― 優しい。ご両親も教育委員会もすごいですね。

原口 ぶっちゃけ、先にテレビとかに出たりとかして、そちらをすでに見せてたりしていたんで。有無を言わさず黙らせた一面はあったのかなとは思います。そこはちょっとだけ申し訳無さがありました。

N校に入学したのも、N校を運営されている方を当時ご紹介されたのが大きかったんです。もともとは通信制の高校に通うんじゃないか?と家族のなかで話していたんですけど、「それでもちょっとつらすぎる」「もっといい条件の学校があれば」と思ったときにお話を頂いたので、自分もかなり本気で調べました。

授業の時間はいつでも大丈夫、夜中にやってもいいし、月末に一気にまとめて終わらせても良い。自分が調べた当時はそういったカリキュラムで、そこ含めてN校を選びました。

― N校についてお話が及んだので、原口さんと密接な関係があるであろうニコニコ動画についてお話を伺いたいです。最初にニコニコ動画と出会ったのはいつごろでしたか?

原口 出会いの前に自分とネットカルチャーとの話をしたほうがいいかもしれないですね。

自分は小学校入る前くらいからSoundcloudがすごい好きだったんです。Soundcloud自体がだいぶ初期のころで、日本人ユーザーが全然いない頃でしたね。bandcampなんかもみながら、音楽が聞けるサイトをずーっと探してたんです。当時父親と「ここがいいよ」「YouTubeでこういうのがあるよ」みたいなのを共有してて、そのなかでSouncloudっていうのが最近あって……という形で知ったかなと。

当時だと本当にチープなサンプリングミュージックみたいなものが多かったんですけど、だんだん独自のネットレーベル系な音楽にハマっていったなかで、それこそkzさんが初音ミクで楽曲を出したり、ニコニコ動画で出たボーカルリミックスみたいなのがSoundcloudであったりして、そこをキッカケにしてボーカロイドやその文化に出会ったんです。

「でもこれ、ここが主戦場じゃない。どこで聞けるんだ?」とどこかで気づいて、探してみつかったのがニコニコ動画だったんです。で、ニコニコ動画で最初に見て笑ったのが、ミニチュアサイズのエスカレーターを作ってみるという動画だったという。

― kzさんの楽曲を聴いたとおっしゃいましたが、「Tell Your World」だったり?

原口 そうです、その通りです。

― いち投稿者として、またはいちリスナーとして一番笑ったのはなんでしょう?

原口 なんだろう。サザエさんのキャラクターでダフトパンクを再現するやつですかね。

― これ系のネタ、めちゃくちゃありましたね。CapsuleとBeastie Boysが使われたMADとかも超有名だった。

原口 謎にCapsuleが使われてましたよね。

― 当時PerfumeがブレイクしていたのとCapsuleが名作を出してて、中田ヤスタカがとんでもなかったというのも影響してるのかなと思ったりします。

原口 あとはBUBBLE-Bさんのナードコアの動画ですね。当時から食についていろいろ話してて、寿司屋にCD置いていたり……謎の面白さがありますね。いわゆるネタ系のお笑い動画とか、替え歌やニコラップを見てました。あとはモノマネ関係のネタ動画もかなり見てましたね。

― 音楽をキーにして、Soundcloud、YouTube、ニコニコ動画を使ってさまざまな音楽、機材やライブを見たと思うんですけど、当時から今にかけてお好きなアーティストは?

原口 坂本龍一さんはもちろん好きですね。あとはテイ・トウワさんとCymbalsが好きで沖井礼二さんも好きです。くわえて田中フミヤさんが別名義でやっているKARAFUTOというアーティスト活動があって、そこで出してる2枚組のミックステープにノイズやグリッチ、エレクトロがたくさん入ってるんですけど、その後にハマった曲がこのミックステープに入ってたことが多くて。「結局これ系の音楽聞いてるんじゃないか?」と最近気づいたんですよ。

― 坂本さん、テイさん、田中フミヤさん、Daft Punkまでいれるとハウス寄りじゃないですか?もう幼い頃からそっちのほうが好きだったんですね

原口 まぁそうですね。電気グルーヴや石野卓球さんのソロも聞いていて、それこそなんか慣れて親しんで聞いている部分はあります。ノリのいいものが当時から好きだったんだなと思います。

― これまでリリースされてきた原口さんの楽曲には、いろんな音楽からの引用がありますよね。ソウルやヒップホップのマナーに合わせたものや、ブラストビートが突然入ってくるものもあったり。色んな音楽を雑多に聞かれているのかな?と思っていたんですが、これは自分が好きで聞いているのか、それとも必要に応じて聞いているのか、どちらなんでしょう?

原口 自分の曲に入っているのは、これまでに1度ハマって掘り下げたことがあるものが多いですね。別々の音楽をちょっとずつ、同時期に何年かかけてハマって聞いているということが多かったんです。別のジャンルとハウスとを行ったり来たりして聞いていて。くわえて、なにか作るときに「あれが使えるな」と思って調べて持ってくることもありますよ。

― なるほど。原口さんがこれからいきなり無人島に連れて行かれることになって、3枚音楽CDを持っていくことになったらどの作品を持っていきますか?

原口 でも、無人島にCDプレイヤーないですよね?

― 鋭い指摘だ(笑)

原口 まぁ抱えて寝るものとして考えるとして(笑)坂本龍一さんの『未来派野郎』と、テイ・トウワさんがやっているSweet Robots Against The Machineというプロジェクトが出した『TOWA TEI』、あとは急ではあるんですが、花澤香菜さんの『25』ですね。

花澤さんのアルバムは25歳のときに25曲入ったアルバムを出すという、ちょっと狂ったアルバムになっていて、僕の学生生活を支えてくれた1枚なんです。

― 花澤さんのアルバムでも名盤の1枚ですね。

原口 北川勝利さんやRound Table、渋谷系文脈の方がやはり自分は好きで、あとにアイマス関係でお世話になるんですけど、宮川弾さんや中塚武さん、さきほど名前を上げた沖井さん、同じCymbalsだった矢野博康さんなど、そちらの文脈の方々が参加しているアルバムで、このアルバムにだいぶ影響をうけていまポップスを作れているという実感すらあるくらいなんです。

― 渋谷系の作品はかなり原口さんのなかででかいんですね。

原口 かなりでかいです。それまで「リズムだけあればいいや」「ノイズとかでも全然満足」みたいに音楽を楽しんでいたんですが、ちゃんとポップなものを作ってみたいと思わせてくれた。それくらいとても影響が大きいです。

あとやっぱり個人的にアニソンの影響は大きくて……『ご注文はうさぎですか?』の楽曲や劇伴、キャラクターソングも含めてかなり聞いたんです。ポップスを作っていく意識づくりみたいな部分は、そこから得ている部分はあると思います。

― 職業作曲家として、またはアーティストとしての活動を15~16歳のころからスタートするなかで、「ポップなものを作ろう」と感じることになったわけですね。

原口 まさかメジャーレーベルと契約するとは……なんて思ったんですけど、実際に契約を交わして、腹を括りましたね。じつは、自分がトラックメイカーとなってフューチャリングアーティストを招いてリリースしていくものだと思っていたので、自分が制作していた詩を自分が歌うということになり……それで余計に腹を括りました(笑)

次の日からヒットチャートに入っている曲を上から下まで全部さらって聞くようになって、ちょうどそのとき中学生から高校へ入ろうかというころで、勉強中にJ-POPチャートを全部聞くというのをやってました。これは参考にするというよりも、もはや勉強みたいな……

― 勉強中に勉強してる、っていうこと?

原口 ですね。「とりあえずこれは作れるようになろう」みたいな気持ちがあった。というか、「まずい。プロとしてお金を払われるようになってしまったぞ?」とヒヤッとした感じがあったんですよね。

― ”SASUKE”の頃の楽曲と”原口沙輔”としての楽曲を聴き比べてみると、SASUKEの楽曲は他のアーティストさんへの提供もあってかかなりポップス然とした楽曲を作られていているのがわかりますし、原口沙輔の楽曲はポップソングらしさがありつつ、ノイズが入ったりなどリズムがかなり複雑だったり、ボイシングやハーモナイズどうなってるの?と思わせたりと、聞き手を戸惑わせたりするくらいに遊び心がありますよね。

“SASUKE”のころは、ソロのアーティストとしてやるからこそ、ポップスを作ろうというのは相当意識していた?

原口 色んな音楽のジャンルやサウンドを気になったら作り続けてて、このときちょうど1周し終えていたというのは大きいと思います。

気になったら作って、気になったら作って、という流れを散々続けていて、その後にメジャーデビューすることになった。そのなかで何ができるかな?と思ったときに、「自分の趣味性ゼロ」「自分はサービスを提供する役」みたいにしないといけないかな?と感じたんです。

自分のアイデンティティが出ないように、自己中心的なものにならないように、自分のことを一切考えずに作っていく。「他の人達に聴いてもらえるためにはどうすればよいのか?」といろいろ考えたもの、それだけで構成して音楽を作ってた。言ってしまえば、”SASUKE”という企画だったのかなと。

なので、当時自分から見て流行っている文脈やジャンルを取り入れつつ制作してました。フューチャーパンクとか、80年代の音楽とか。

― シティポップ~ニューミュージック寄りな音楽とかね。

原口 意地になっていた部分もあったかと思いますが、当時は当時なりに楽しくやってましたね。うまく作れれば何でも楽しく感じられていたのがとても大きかったですね。

― その象徴的な曲というと「J-POPは終わらない」だと思うんですけど、あの曲で踊っていた原口さんはおいくつのとき?

原口 あれは15歳か16歳のときですね。

― わっか!!

原口 当時N校に通いながら作った曲です。

あまり自分のことを考えたことないまま、ここまで活動してきたことに気づいた

原口 ただ当時は冷静なつもりだったんですけど、自分を全然大事にしていなくて、子どもだったと思います。このあとにツケが回ってくることになるんですよね。

― ツケのお話は後にするとして、いまのお話は音楽の中にある「ひとを楽しませる・喜ばせる」という機能性を突き詰めて作ったということだと思うんです。この経験は今でも生かされていると思いますか?

原口 ありますね。この経験があったので、提供曲を制作するときはかなり効率よく作れているんじゃないかなと思います。

― SASUKEとしての活動が終了し、メジャーレーベルとの契約も終了して、現在の原口沙輔という名義に変わりました。ちょうどコロナ禍の最中でさまざまな事象が重なったと思うんですけど、シンプルにこの頃なにがあったのかということをお聞きしたいです。

原口 さっきのツケの話がこの頃の話ですね。ちょっと夢見がちだったなと反省したんです。

メジャーでの活動が始まるとき、3年か4年分くらいまでノートに書いたんです、ロードマップみたいなものですね。この年の何月にこういう曲をリリースして、こういう界隈で見られる。ここでこういう曲を出したいからこのひとを起用できる知名度をあげておく。こういうインフルエンサーやシンガーさんに歌ってもらうのはその次の曲。

そういったことを割と細かく、具体的に書いていたんです。

― ふわっとした内容ではなく?

原口 ムリなことはない!やれるはず!という感じで、結構現実味があるくらいの内容で書いていたんですよ。ただやっぱり全然うまくはいかず、自分でアイディアを練って持っていっても、簡単に通るわけもなくて、予算やスケジュール上とか現実的な問題もあって思ったように進まなかったりして……。

自分なりに腹くくって頑張ってはいたんですよね。表に出てしゃべったりするし、身なりも綺麗にする。いっちゃあなんですが、都合の良いことも言ってやろう、芸能だとおもって割り切って考えていた。

ですが自分自身で課したものとか含めて色々大きかったし、契約を再度結ぶ場で「再契約はしない」と伝えて辞めました。

それが2021年1月に起こった頃で、完全フリーランスの身になったし、「自分で好きに作って、好きな曲を好きなだけプロモーションしていくか」と思って4~5曲作ったとき、なにかこう「スッキリしないな」と思ったんです。

― スッキリしない?

原口 そう。よくよく考えたら、あまり自分のことを考えたことないまま、ここまで活動してきたことに気づいたんです。

小さい頃まで振り返ってみると、自分はダンスをしたり音楽を作ったりして他の人と違う生活をしていたわけじゃないですか?それって周りの人に許されている感に甘えてた・浸かってたんだなって。

音楽という仕事があるから学校生活を休める、なら普通に勉強するよりは良いやって感じで、自分が判断しているというより、自分の気持ちを考えられていなかった。

例えば、自分は割と大学に行きたかったんですけど、それを諦めて音楽をやっていたりして、「それも運命だな」「そっちのほうがそうなりそうだから」というような選び方をしていた。しかも、そうして判断して作った音楽が、自分が純粋に作った音楽かどうかもわかんなくなっていたんですよ。

「贋ト旧称」は月ノ美兎の歌が脳内再生されて作った

― 自分が好きで聞いていた音楽ではなく、”SASUKE”として制作・リリースしていた音楽だったわけで、いろいろ訳わかんなくなっていた時期だったわけですね。

原口 それが17歳とか18歳だった2020年とか2021年とかで、その頃が人生で一番落ち込んでいた時期ですね。コロナ禍の真っ最中だったし、人とのコミュニケーションもめっきり減っている時期で、歌詞を出そうと思ってもでてこないんですよ。自分がどういう気持ちで、どう思っているかというところがわからなくなってた。

なので、ここまで話してきた人生を全部振り返ろうと思って、家族が撮っていたビデオやアルバムをかき集めて、自分で見てみたんですよ。

― その頃はまだご実家にお住まいだった?

原口 そうですね。なので写真とかアルバムを集めたり、テレビに出たときやインタビューされたとき、ライブに出たときの映像もちゃんと手元に残っているので見直すことができたんです。「NHKの音楽スタッフになりたい」ということを幼い頃に考えていたことを思い出したり、親には音楽制作とはストレートに言いづらかったので「アーティストになりたい」というふうに伝えてたということも含めて。

それを見ていったとき、こう……なんでしょうね、もちろん経験としては良かったんですけど、「良くはないな」と感じるやつもあったりしたんですよ。なのでもう思い切ってシンプルに、振り返ってみていった出来事を「良かったか」「悪かったか」と判断していったんです。お世話になったからという部分とか抜きにして、直感や瞬間的な判断に任せず、一個ずつしっかり考えて判断していった。

それでわかったんですけど、自分のやりたいことが全然やれていない、ほとんどの事柄が悪かったんですよ。

― 周りの判断や評価とか一切抜きにして、自分の判断や考えがしっかり沿ってるかどうか振り返ってみたら、ほとんどが良くないものばっかりだったと。

原口 そうです。例えばこのあとお話するボーカロイドに関しても、その当時はやらないという判断をしていましたが、振り返ったそのタイミングでジャッジしたときに「良くはないよな」と改めて感じたんです。

じつは地元の楽器屋でパッケージ製品を手に持ったけど、ためらいがあってやめてしまったことがあったんです。それは、両親がボーカロイドがそこまで好きじゃないことを知ってて、「2人が喜ばないなら手を出さないほうがいいんじゃないか?」と勝手に感じてて、そういう理由で使わなかったんです。

そうして振り返ってみたとき、いろいろやらなかったことが浮き彫りになってきたんです。今までできなかったことが今後もできないままで、無理してやっていくぐらいなら、もう趣味として音楽をやるほうが良いだろうという気持ちにすらなった。

いってしまえば、「NHKで音楽制作」はSASUKEの時点でやりきってしまってて、”夢がかなってしまった”んです。その状態で、「じゃあ次なにがしたい?」って言われてる。そのキツさ、そこに気づいたんですよね。なので「趣味として音楽をやるほうが良いだろう」とも思ってた。

そんなタイミングでお声がかかったのが、Abema TVで配信された「彼とオオカミちゃんには騙されない」でした。(2017年2月からAbemaで配信されている恋愛リアリティショー。第11弾メンバーとして2022年2月から出演した)

― そこで恋愛リアリティショーにつながるんですね。

原口 じつはリアリティショーのオファーは何度か来てて、全部断っていたんです。絶対に普段だったら、普通だったら受けない。なので出演を決めたときは、黒歴史を作ってやろう!という位の気持ちで言ったんです。こういうとまるで自傷行為みたいですが……。

でも実際に初日になってみたら、まぁ全然そんなことはできない(笑)。むしろ僕は良い感じなカップルになってしまって、途中から僕はあきらめて「どうやったら良いですかね?」とスタッフさんに聞きに行っていたくらいでした。

結果的に特に悪目立ちすることもなく番組が終わってしまって、「もう活動は終わろう……」という気持ちになって。ラーメン屋になるか、音楽関係のライターになるか、ANYCOLORの社員になろうかと思ってました。

― 当時の共演者やスタッフも知らなかったでしょうけど、そういう気持ちで動いていて、むしろ投げやりになってしまったと。しかも自暴自棄気味になっていたと。

原口 まぁ何人かの友人にラーメン屋やったことあるかを聞いてみて、向いてなさそうと悟って選択肢から外しましたね(笑)これは他のところで話していなかった話題なのですが、ちょうどこのときよく聞いていたのが月ノ美兎さんの『月の兎はヴァーチュアルの夢をみる』だったんです。

― なるほど。確かにちょうどその時期、2021年8月にリリースされてましたね。先日にはその月ノさんとの新曲がリリースされていましたね。

原口 さっき話していた無人島に持っていきたい1枚にもいれたいくらいの名作だと思っていて、かなり大きな影響を僕に与えてくれたんです。

この頃は気持ちが落ち込んでいた時期だったこともありまして、自分自身が曲をまったくかけなくなってしまって、お仕事としてお受けしたものをなんとか作りながら、「どうもしっくりこないな」「でも曲がかけないなりに、何となく音を置いてみて作ってみよう」と思って作り続けて、ようやく完成した曲があったんです。

自分のなかでも割と「良い」と思える、「自分でも聴きたい」と思えるような曲を、久々に作れたと感じられたんです。ただ、その曲を作っているなかで「月ノさんの歌声」が脳内で再生されたままずっと作ってしまったところがあって、どうしてもメインボーカルを委員長に頼みたくて……

― え?まさか?

原口 先日リリースした「贋ト旧称」は、まさにその時に制作・完成した楽曲なんです。2022年頃にはすでにバックトラックは完成していた1曲で、自分のなかで落ちきっていた自信を、すこし取り戻せたキッカケになった楽曲なんです。こういう曲ならムリしていない、自分がそのまんまでてる感じがした。

― 実際に委員長に歌ってもらえたわけだ。とんでもないドラマだ。

原口 実際月ノさんにオファーしたのは、制作からもっと後になってからですけどね。

言ってしまえば、この曲調は急にリリースしても沢山の人に聞かれるような曲調ではない。でも自分の名前を変えて、「原口沙輔」となって出ていくのであれば良いんじゃないか、そう感じられるようになった。

「聞かれようとする」必要もなければ、「聞かれるような曲を作ろう」とする必要もない、じゃあやってみようかなと。この曲ができたことで、自分の名義を変えることにもつながったんです。

最初は全く関係のない新しいアカウントとか名前にしてみようと思って考えたんですけど、ぜんぜんしっくりこなかったくらいでした。

― 最終的に本名で活動することになった。これはなぜでしょう?

原口 ここまでの話、自分らしさをどういう風に見つけ出していくかという流れだったじゃないですか?そこは自分も自覚してて、「この流れで本名出したほうがしっくりくるのでは?」と。

― ここでもひとつ、腹をくくった判断をしたわけだ。

原口 絶対逃げられないですよね。これ以上先はないわけで。ちょっと変わった名前ではあるけども、全然芸名ではない。本名を名乗る以上、もう無理して芸能界っぽい振る舞いをしないようにする。そういう腹の括り方。原口沙輔というのは単に手を動かしている人間のことであって、作品だけをまず聞いてほしい、そういう気持ちももちろんありました。

― そこからすこしずつ曲を作り出していくわけですね。

原口 そうですね。さっき話題にあげてた良い・悪いジャッジのなかで「なんとなくこれまで選んでいなかったもの」を、今後の人生やっていこうと順番に思ったんです。

― ごめんなさい。「今後の人生」とおっしゃいましたけど、その時何歳でしたっけ?

原口 だいたい2022年から2023年にかけてなので、19歳や20歳の頃ですかね?

― 早すぎです、その言葉がでてくるのは(笑)

原口 なんだろう。メジャーレーベルにいって、恋愛リアリティショーでて、曲も作れなくなって、「もう死ぬのかな?」くらいの気持ちでしたね。メンタル的にも結構ヤラれてましたよ。そのなかで、「これまで選んでいなかったもの」を順番にやっていこうというのは、余力があるからやっていけるかな?という気持ちではありましたね。

それでそのタイミングで「これまで選んでいなかったもの」で構成した音楽アルバムをザッと考えてみたら、だいたい50曲くらいになってしまったんですよ。1枚じゃ全然足りない、2枚か3枚に分けようと思った。

とりあえず1枚目を作ろうとして集中してデモもしっかりつくって、構成も曲順も全部決め、「よし。こいつを仕上げて、年齢が変わるころに名義がわかることもちゃんとアナウンスして、そのタイミングでリリースしてみよう」と動いた。そうしてリリースしたのが『アセトン』だったんです。

― あのアルバムは2023年5月にリリースされましたね。なるほど、最初に自分が切り出した話題とタイミングがこうしてつながった。ということは、2枚目も3枚目もその時点でしっかりと見据えて制作していったんだね。『スクリーンⅡ』もすぐにリリースしていますし。

原口 はい。3枚目まで確定しています。

― いや3枚目出てないじゃないですか!(笑)

原口 そうなんですよ(笑)とはいってももうすぐに出ます。「人マニア」もその3枚目にいれる予定になっていますし、「贋ト旧称」も入れる予定になっています。きっと年内に出る予定です……いったん収録予定曲をみてみますか?今回特別にお見せしますよ。

(制作中・リリース予定となっている3枚目のオリジナルアルバムの収録曲リストをみせてもらう)

― えっ!?これ……このメンバーはあのメンバーじゃないですか!?坂本龍一さんリスペクト感すごい

原口 乞うご期待ということでひとつ。

3rdアスバム『イ三』ジャケット

これからリリースするサードアルバムが最高傑作になるだろうと思います

― こうしてセルフプロデュースとして活動されていて、「ここで完成だ!」と思ってゴーサインを出すのは原口さんご自身ですしね。3枚目に関してはいまも制作中と。

原口 自分の音楽人生のなかで、やりたかったことをやり切ろうということで、アルバムタイトルは「イ三」というタイトルになる予定です。というか、たぶんなります。これを制作したら、いったん自分の中にあるものが空になります。

― これまでできなかったことをやりきる。やらなかったこと、できなかったこと、選ばなかったものを、あえて選んで作ってみる。だからこそ明らかに曲調が変わっているし、それは『アセトン』の時点でも感じました。でも自分が聞いていていちばんに感じたのは、破れかぶれな勢いみたいなものでした。

原口 やっぱり気持ちを大事にしています。自分の中にある感情を表現するために、どういったものを作ったら良いか?というのをずっと研究しつづけてますね、ここ数年は。

そもそも『アセトン』を作り始める直前に、全然関係ない別名義で音源のリリースはしていて、そこでの反応をみたりして、音を集めていったところもありました。

― そういった3枚のアルバムを作っている間に、ボーカロイドを使った楽曲をリリースしました。最初の楽曲「人マニア」は、初めてボーカロイドを使った楽曲制作になりましたね。

原口 そうですね。『ボカコレ 2023夏』にむけて制作・リリースしました。(註:TOP100ランキングにランクインしている。)いままでやろうと思ってやれていなかったし。

― さまざまなメディアで語っていますが、この曲は3日で作ったそうですね。しかも映像も同時に作られたと。今まで人間のボーカリストを相手に楽曲を作られてきてて、いきなりボーカロイドを使って楽曲を作るというと、難しかったのでは?

原口 「もしも作るとしたら」と考えていたことはこれまでにもあったので、それを形にするだけでした。なので難しさはなかったですね。逆に、もしもボーカロイドでやりたいとか一切考えていなくて、「ちょっとやってみるかぁ」くらいのテンションだったら3日ではできてないですね(笑)しかもお仕事関係の楽曲制作の合間に時間を見つけて作り始めたので、進行自体もかなりキツかった。

とはいえ、ありがたいことにお仕事のほうは全然絶えることなく続いていたので、なんとかなっているといった感じですね。

― ソロとしての音楽と、お仕事としての音楽。生きるためにまさに音楽を作っている一面は変わらずにあるわけですもんね。

原口 しかも”原口沙輔”名義でソロ音源を作るのは、やる・やらないも自由なので製作を止めていた時期もあるくらいです。

― それこそ『アセトン』『スクリーンⅡ』からみると、3枚目となるアルバムはまだリリースされていないですしね。ソロとしての音楽と、お仕事として請け負っている音楽で、自分のなかでモードの切り替えみたいなのはどうしていますか?

原口 切り替えといっても、基本的にはお仕事としての音楽をメインに手掛けていて、パッと手が空いたときに「じゃあ作るか」みたいに移っていく感じです。なんか休憩みたいな感じで、1音2音いれたり、1小節分作ってみたり、そういうペースですね。まぁ、こんな感じだから3枚目がまだ完成していないというのもあります。

― ちょっと想像できないですよ。「休憩ついでに1音2音いれてみよう」という状況が(笑)「人マニア」の大ブレイク以降にさまざまな仕事のオファーが届いたわけですけど、そちらはあくまでソロ名義・原口沙輔の音楽としての一面じゃないですか?お仕事の音楽として求められたとき、どういう風に捉えて制作していますか?もはや切り分けっていうのがあるのかどうかあやしいレベルになりますよね

原口 僕の意識の中では、ソロとお仕事とでは完全にまったく別のことをしたいとは思っているんです。ですけど、まぁ自分の曲がお仕事相手のリファレンスや返答の中にあることもあって、割と困るということもあります(笑)突拍子もないような音をいれてほしい!と言われたりね。

― やっぱりそういう部分ありますよね。

原口 最初のオファー段階で伝えてくださっていたら良いんですけど、ロックな曲を作ってください!というオーダーだったのでロックな曲を作ってお送りしたら、「人マニアみたいな部分がほしくて……」という風にリファレンスがあると、さすがにかなり困るんですよね。

というのも、ああいうのは僕の感情を表現するために作っているし、最初からああいうのをいれる想定ならしっかりスペースを確保したうえで作っていくんです。しっかりとした間や流れがないと成り立たない。こちらは普通にいい曲を作ったはずなのに、そこの返事でそう伝えられると、いれただけで曲として本当に破綻している形になってしまう。

― とはいえ、そういうオーダーが来たならばつくるわけですよね。

原口 だいぶ苦しみながら作ってますよ(笑)どうしたら違和感なく入れられるかな?なんかこれ変じゃないか??と思いつつ進めていきます。

― 個人的にいちばんぶっ飛んでるなと思ったのは、テレビアニメ『エルフさんは痩せられない。』のなかで使われたキャラクターソング「無限モグモグタイム!」でした。曲調やグルーヴがコロコロ変わるし、いったいどういうことやねんと聞くたびに思ってしまいます。

原口 あの曲はDE DE MOUSEさんとのユニット・エフエムTOWNSのコンビで受けたもので、エフエムTOWNSに関してはもう、本当にグッチャグチャなんですよ(笑)お互いにデータを送り合って回しまくって、どっちかが「完成!」といったら完成する形です。各々が入れたい音をいれあって完成する、それが通ってしまうユニットです。

― どちらかがコントロールしたりリードすることは?

原口 あまりないですね。ただどちらかが最終的に責任を持って完成させるために音を整えるし、僕がその役を担うことが比較的多いですね、僕ら2人だとDE DEさんが暴れていることが多いユニットなので(笑)

― この曲、すごくゆったりなところからスピードをあげていくようにいろんな音が入っていって、ファンクっぽくなったとおもったら、ハードコアバンドのブラストビートも混ざって、最終的にJ-POPみたいに収まっていく曲で、それでいてちゃんと聞ける範囲に収まっているじゃないですか?ポップスやポップミュージックというものについて、どういった考えを持っていますか?

原口 「ポップ・ミュージックは大袈裟なもの」という風に捉えています。本当に大袈裟に、わかりやすくしてあげないとよくわかんないっていう方が多いとは感じているので。

― その境地っていうのは、SASUKE名義での活動が無ければ出てこない部分だったり?

原口 出てこないと思います。

― やはりSASUKE名義だったころも含めて、自分が色々作ってきたから今だからこそ言えると。

原口 そうですね。自分が作り上げてきたもののまとめみたいな、いろんな考察を元にしている。なので「J-POPは大袈裟な誇張」だと思っています。

― ある種、ふざけ倒すという部分もある。

原口 例えば盛り上がりへと移行するまえに、一拍抜くとかあると思うんですけど、たぶんニ拍三拍抜かないといけない。

― メロディーがぐいっと上がっていくところも、本来ここで止まるところもあえて上に行ったりとか。

原口 半音とかつかいながらスケールに完璧に合わせてみたりとかね。最近ではコードワーク(コード進行)のなかに間にパッと変なコードを挟むのが良いみたいなのがありますけど、そこもわかりやすくしてあげたりとか、そういうことです。「変なことをしてますよ!」というときはしっかりしてあげないといけないし、まっさらにストレートにやってますよというときはそういう風にしてあげないといけない。そこは分けてます。

― これから出される楽曲も含めて、最高傑作と言える楽曲はなんでしょう?

原口 あえていうなら、これからリリースするサードアルバムが最高傑作になるだろうと思います。自分が一番好きな音楽になる予定です。

― 月ノさんとの楽曲もそこに入るわけですが、あの曲は80年代のシカゴ・ハウスのようなクラシカルなソウルミュージックがバックボーンにあるサウンドが特徴で、そこに委員長のウィスパーなボーカルが乗っかっているという曲ではあるんですが、「人マニア」と比べると大人しい曲だと感じたんです。

ベースの音やドラムのトラックがめちゃくちゃ歪んでいて遊び心があるというわけでなく、すごくオーセンティックなニュアンスを感じた。制作時期がぜんぜんちがったことが先程わかったのですが、いまこういう曲を普通にリリースしてくるのかと驚きました。

原口 「人マニア」はあのタイミングであの曲ありきで作った曲ではあるんですが、ふざけてやろう!という気持ちはまったくない。楽しんで作っている部分は間違いなくありますが、ふざける気持ちは全く無いんです。

これは草野さんも先程言葉にしているし、いくつかのインタビューでも話題に上がっている部分でもあるんですが、僕の音楽を説明してくださる人が「無法」「ふざけてる」「遊び心がある」みたいな言葉をよく使ってくれているんですけど、正直僕としてはあまりしっくりきていないんですよね。

「人マニア」に関しては、真面目かつシリアスに作っているし、サードアルバムにも元々入れる予定で。サードアルバムに「人マニア」以降のボカロ曲を入れる予定はいまのところないんですが、それも「人マニア」以降のボカロ曲は「人マニア」を踏まえて作っている部分が大いにあったり、ヒットを通して知ってくれた人に向けてのサービスだったり、それこそふざけている部分があるからなんです。

― 自分がロックバンドの方にインタビューしていると、「ここすごく歪ませていますし、すごく考えられたんですか?」という風に聞くと、「いやそんなことはない」「ナチュラルにそういう風になっただけで、特別なにかを狙っているわけではない」と返されることがあるんです。とはいえよくお話を聞いてみると、「自分の感情やメッセージを届けるために、このタイミングでこういう風にギターがこうなってるんだ」と論理的に返事もしてくれたりもしてくれる。

いまの原口さんのお話をきいてて、感情やメッセージを届けるために曲調や曲構造を考えながら制作しているというのがとても良くわかりますし、曲のなかで拍を置いてとんでもないサウンドを仕掛けていく原口さんのサウンドと、オルタナティブなロックバンドの質感と、実はそういうところが似ているんじゃないかと思いましたね。

原口 近いかなと思います。ちょっと話がそれますが、僕の曲でたまに音が割れている理由は、僕の気持ちが落ちきっていた頃に普通の音楽が全く聞けなくなっていて、音が割れていた音楽だけが唯一聞けたというのが大いにありますね。ハイパーポップやブレイクコアみたいな、Soudcloudに投稿されていた音割れのサウンドやジャンルにめちゃくちゃ救われているところがあった。そこがあって、自分の中からああいうものが出てきたし、使うようになったんです。

― PC Music周りとか?

原口 かなり漁って聞いてましたね。気持ちが落ちきってて、落ち着いた気持ちでいい曲をゆったり聞くような余裕がなかった。

― ちょうど2010年代からコロナ禍にあった2020年代初頭で、海外でもチルいヒップホップやハイパーポップとかが流行った時代でしたよね。ハイパーポップは昨年あたりからCharli XCXがとんでもないくらいあがっていったし、ハイパーポップ的な要素や影響がどこかしらで見られる状況にある。そのなかで、ここ日本では原口さんの音楽がそこに入ってくるのは間違いないと思います。

原口 ありがとうございます。

― 音源制作から話しがスライドしますが、いま現在DJ活動も積極的に行なっていていろんなリミックス音源も制作して流していますが、なんというか……あのオーバーグラウンドな感じや越境性、ある種の乱雑さみたいなのはどこから来ているんでしょう?どこからリファレンスを受けたのか

原口 それはたぶんThe Avalanchesだと思います。本当にいろいろな曲が出てきて混ざり合っている音楽で、つぎつぎとかわるがわるに変化していく感じ。リミックス音源だったりDJをしているときに大きなリファレンスになっていますね。

ファーストアルバムの『Since I left you』を作った後、その勢いで『Gimix』というミックステープを作っていて、これがDJミックスになっているんです。それがすごく好きなんです。

― DJイベントに出演されるなかで、仲良くなったトラックメーカーやDJさんはいらっしゃいますか?

原口 IOSYSさんです。割と自分のなかでMOGRAのイベントがホームだと感じることが多くて、MOGRAでやってるノリを外のイベントで出してる部分はあります。最初に出たMOGRAのイベントは「elemog」で、名義が変わる直前の2023年5月に出演していたはずです。DE DE MOUSE & SASUKEとしてでていて、ちょうど自分が名義を変更する発表をしたかしていないかタイミングぐらいで、SASUKEとして活動した最後の活動になりました。

― IOSYSなのは意外でした。同年代のかたを挙げるかと思っていたので。

原口 D.wattさんとものすごくしゃべるようになりました。じつはイベントが被ることが多くて、イベント終わったあと早朝6時くらいまで2人で日高屋でずっと語ってるみたいな状況になることが多いんです。そういえば、僕とD.wattさんで日高屋に行くことになって、Aiobahnさんも連れて行って、2人でしゃべている彼が寝てしまっていた、なんてこともありました(笑)

ー Aiobahnさんとも仲がいいんでしょうか?

原口 そうですね。彼から突然楽曲のデータが送られてきて「この曲は完成しているかな?」と相談を受けることがたまにあります。そういえば、彼とはMOGRAの控室で初めて会ったんですが、「原口さんは自分に近い気がするんです」と伝えられたんですよね。初対面でそう言われてびっくりしました(笑)

DE DEさんはSASUKE名義の頃からつながりがあって、DJイベントに出るよりも前から音源のやり取りをしていたので。

― ちなみに同世代のかたとはどうでしょう?

原口 うーん、gaburyuさん、yuigotさん、kabanaguさんとは仲良くさせてもらってますね。ただPAS TASTAやGenerationZのメンバーとは仲いいですが、イベントを通じてというよりもSNSを通して仲良くなった感じなんです。ツイッターで初めて知り合って、マストドンでもつながったときにお互いに初めてしゃべったような感じです。

― へぇー!おもしろいです。

原口 そうですよね(笑)いま仲いいボカロPのフロクロさんや、「Internethood 2」で僕を呼んでくれたnamahogeさんや音楽ライターのimdkmさんとかもマストドン経由で知り合って、よく喋るようになったんです。

みんなでお互いをフォローして会話しているので、タイムライン上で返信とかつけずにしゃべってるときもあって、同じ経路で仲良くなったトラックメーカーさんと実際に会うときにすら、マストドンで会話してたくらいだったんですよ(笑)

― 2人をフォローしていないとなんのこっちゃだか見ている人がわからないうえに、そもそも危ないじゃないですか!(笑)まぁコロナ禍もあったのでそういう繋がり方にもなっちゃうか

原口 年代近い人ほどSNS上やネット経由で知り合うことのほうが多くて、そのあとに現場で初めて会うことが多かったですね。

― これは初めて聞かれるかと思うんですが、さきほど名前の上がったPAS TASTAやGenerationZなどは同じパーティで顔なじみになったメンバーやグループを組んだと思うんですが、原口さんが参加しているCDsはどういった集団なんでしょう?

原口 CDsはグループではなく、アートレーベルなんです。出入りがすごく激しくて、僕もメンバーみたいに思われているけど、いる人といない人が結構まちまちですね。20人とか30人で入れ代わり立ち代わりで参加してるみたいな。

― いちリスナーとしてみていると「あの人は参加してるっぽいぞ」みたいなのはわかるけども、全容がいっさいわからないという謎の集団ではありますよね。それこそ去年YouTubeの企画で出演されていましたが、あのメンバーもまた一部でしか無いと。

原口 あとすごくややこしくはあるんですが、手伝いに来ただけでメンバーではない、みたいなところもありますしね。

― なるほどたしかに(笑)それこそヒップホップ関係のPVでよくある「出演はしているけどもそのグループに属しているわけじゃない」的なね。

原口 ややこしくて申し訳ないとは思っています。

― 例えば10年すこし前だと、マルチネレーベルなど含めてネットレーベルが立ち上がって、そのあとによりDJ寄りだとTREKKIE TRAXの面々がでてきたり、USAGI PRODUTCIONなどもでてきたり、Kawaii Future Bassシーンもありました。アニソンDJイベントもかなり盛り上がりつつ、先ほど名前があがったニコニコ動画でのボカロカルチャーもあり、いろいろなカルチャーが混ざっているなかで、原口沙輔というすごい才能が出てきた!という風な印象をもつリスナーやファンも多い。

ただ今日のお話をみればわかるように、原口さんは職業作曲家として長く活動していたし、そんな方がボカロシーンへやってきたという格好になる。そのへんはどのように感じていますか?

原口 こういうインタビューや取材などで肩書きをボカロPと書かれると、さすがに気まずさはありますよ。「人マニア」を投稿した最初の頃はやっぱり追い返されると思ってましたしね。名義上プロの世界でやってるやつが、急にアマチュアの世界にやってブイブイ言わせてるみたいな、そういう面もあったわけで。ただ今ではすんなり受け入れられて、正直ありがたいなとも思っています。

ー ハイパーポップについて先ほど話がありましたが、楽曲へ取り入れることになったのはすこし遅れたタイミングでしたよね?

原口 そもそもハイパーポップにかなりハマっていた時期にすぐに取り入れようとしなかったんですよ。「いまこれをやってもよく思われない」「流行りに載っかっただけみたいに言われそう」と考えちゃって、必要な時が来たら落とし込んで作ってみようと考えて、ちょうどタイミングがきたので作り始めたという感じです。

― 流行りだしてから1年くらい遅れてリリースしたような方もいましたしね、実際に

原口 裏で作ってはいたんですけど、表では全く出してないですね。

― なるほど。作るまではやってたんだ。

原口 自分で聴きたい音作って満足、みたいな(笑)これをリリースしてもヘタに手を出したみたいに思われるなと……

― 流行りに乗っかったって思われるのがイヤとか、そういう音は作りたくないとか、正直そういうのは意識しますか?

原口 自分はめちゃくちゃ他の人に対して思っちゃうタイプなので、自分に対してもやっぱり感じちゃうんですよ(笑)自分が嫌いな音を出したくないじゃないですか。そう考えると、一個前の名義では自分は好きではないことを割としてたタイプのアーティストだったとおもうし、そこはやっぱり意識してます。

自分に対するツッコミが強いともいうし、「それは違うでしょう?」「なんか解釈不一致じゃない?」みたいに。

終わったら、もう”空”になります。

― 先ほど月ノ美兎さんのお話もありましたが、VTuberはいつごろから知っていたんですか?

原口 Kizuna AIさんが出てきた最初期からですね。その頃YouTube全体があんまり面白くないなと思っていた時期で、こういうタイプ・こういうジャンルができてきたんだなと思ってみてました、割と当時は技術的な方面で取り上げられることが多かったですよね。

― そうですね。こういう技術があるんでこういう表現ができますよという話しが最初は大きかったですが、蓋を開けたら芸能やタレント寄りだったという。

原口 僕もどちらかと言うと、そういった興味で見始めましたね。

― VRチャットなどでライブをする予定はあるんでしょうか?

原口 バーチャルにはバーチャル上で住んでいる人がいるから、その人達が先に率先してやればいいじゃないかな?というスタンスでいて、僕が有名だからといってそのステージを取ってしまうと、他のミュージシャンにとってもライブができるんじゃないか?と思われる舞台になっちゃうじゃないですか?

なので、先にいまいらっしゃるバーチャルな方々が、本当にもうやりきった!というタイミングぐらいで僕を呼んでくれたらいいなと思ってます。

― それよりもVTuberさんへの楽曲提供するほうが、今のところマッチする?

原口 そうですね。いつでも来いです、他の仕事を蹴ってでもやりますよ(笑)

― お仕事として職業作曲家をやりながら、サードアルバムを制作している原口沙輔ですが、今後はどういう風に活動をしていきますか?

原口 サードアルバムを出したら、いったんお仕事の方も減らしつつ、自分的にも本当に気が向いたときに音楽を作って、音源が貯まってきたら出そうかなというくらいに、ゆっくりやっていきたいと思っています。

溜まってる本も読んでみながら、いろんなものを楽しみたいですね。あとはレーベルであるCDsのほうに集中して、運営を頑張ってみたいですね。

― やりたいことが尽きないくらいにありそうですが、やり残したことリストから考えるとどうですか?

原口 だいぶやりたいことが尽きてきたなと思ってます。やり残したリストを作って順番にやっていく流れでしたけど、ボカロはすでに済んだし、アルバムを出すのも1枚目を出した時点で済んでいて、自分のやりたい音楽をやりきるのもサードアルバムで完成する。レーベル運営に関して続けていくのみなので、本当にあと残ってるのはなんだろう?くらい。

― 1個か2個くらい?

原口 それらが終わったら、もう”空”になります。最近思うのが、音楽だけが勝手にリリースされていく状態にしたいんです。

― なんというか、名義としては原口沙輔として活動はしているが、ある種の無記名性にあこがれてたり、こだわりがあるということですか?著者性が出ない・本人性が出ないというか。

原口 そうですね。出ているものだけを見たり聴いたりすれば、もう面白いから良いんじゃないですかね?なんて気持ちも、ないこともないです。べつに求められても僕は何もしないし、曲はいつでも再生すれば求めてるものが聞ける、それで良いんじゃないかと思っていますよ。

― 2010年代ごろから、ポップミュージックシーンで活躍しているミュージシャンやアーティストが映画の劇伴を担当するということが増えてきましたが、そういった方向はどうでしょう?

原口 過去に演劇の劇伴を作っていたことがありました。もしも呼ばれればありがたくやらせていただきたいですね。ちょっと忙しすぎて「いまのスケジュールだとちょっと難しい」と断ってしまったこともありましたが、ヒマができてきて今後やってみる時間が作れるならぜひやってみたいです。

― ゲームの劇伴をやってくれないか?とオファーがくるかもしれないですね

原口 『FF』の音楽を制作している浜渦正志がめちゃくちゃ好きなんです。あと昔セガサターンで発売された『魔法騎士レイアース』のゲームがあって、そこで岡元清郎さんが担当されていた音楽がめちゃくちゃ良いんです。坂本龍一さんのラジオ番組「サウンドストリート」のなかにあったデモテープ特集でいつも取り上げられていた凄腕の方なんですが、その後セガに行かれて制作されたみたいです。

とまぁいろいろ話しましたが、一旦は思いつく限りのことをやったうえで、やりきったあとに考えようと思います。いま考えると、先にやってしまおうとするかもしれない。

― ……いやそこが「創作意欲が尽きない」という話じゃないですか?考えたとしてもすぐに行動しようとは思わないでしょう?時間を置いてみてやってみようとかにならないもんですか?

原口 それが必ずしも良いというわけでもないのに、なんかすぐに行動に起こしちゃいがちなんですよね(笑)とはいえ、とにかく活動はいろいろと続けていきたいなと思っています。

原口沙輔「イ三」収録曲予定曲

01. 「「「起動ディスク
02. イ三
03. 有す
04. ユーザービリティ
05. 実態
06. 仮有0一(+鎮座DOPENESS + Uzhaan)
07. 失態
08. 贋β
09. 侵食
10. 千号
11. 贋ト旧称(+月ノ美兎)
12. 優劣
13. 仮有0二(+環roy + Uzhaan)
14. 理性
15. 人ニアリ
16. 人マニア(+重音テト)
17. ユ !
18. それに命(+重音テト)
19. 妙
20. 無神経
21. 共存
22. 仮有0三(+いとうせいこう+ Uzhaan)
23. 実有
24. 絡まる
25. 誰か
26. 有る
27. 卑屈
28. 僅力
29. 全て
30. プログラム終了」」」

(TEXT by 草野虹 インタビュー日:2025年4月末)

関連事項
原口沙輔 公式X
原口沙輔 公式YouTube