市場規模が右肩上がりで拡大し、2023年度は800億円になるともいわれているVTuberの世界。
アニメやゲームとは異なり、ファンと同じ時間軸を生きて、リアルタイムでコミュニケーションできるという新しいキャラクターの形態は、一体何が人の心をとらえて熱狂させているのか。人とキャラクターの間に立つ新しい存在をひも解くためには、おそらく哲学や神学からのアプローチも必要だろう。
そんな経緯から、バンダイナムコでキャラクターライブを手がけ、現在、英国セントアンドリュース大学大学院で神学を学ぶ鈴木直大氏に筆を取っていただいた。
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「個」としての本質は備えているから存在しているYouTuber
コラムの連絡を始めることになりました。
少し前に、こちらのメディア「PANORA」の事務所で代表の広田さんとお話ししているときに、「面白いから書いてくださいよ、というか私が読みたいです」とこれ以上ない表現でオファーをいただいたことから今回の機会になりました。ありがとうございます。
私は、気づけばもうずいぶん長い間、いわゆる新商品とか、新事業、と呼ばれるものに関わったり作ったりという仕事を続けてきた者です。
そして、私とこのPANORAとの最初のご縁は2017年に当時在籍していたバンダイナムコエンターテインメントで等身大映像としてのキャラクタ達による、独自方式でのライブステージを立ち上げた際に取材していただいたことから始まります。
・電気おじさんたちはもういい──女性ファンが本当に喜んだ「ドリフェス!コール&レスポンスstage」の作り方
そして少し前、私が留学中の英国から帰国したタイミングに某社からお誘いをいただいてVTuberのライブステージに伺った際、会場で広田さんと偶然会いました。彼曰く、「どうしてイギリスにいるはずのひとが今ここに!?」と少し驚かせてしまったことや、いくつかの偶然が重なって今回からの掲載になるとは、ご縁というのは面白いものですね。
この連載において、広田さんからは特にテーマを絞ってのオーダーはいただいていません。その時に私が気になっていること、思っていることなどを書いていけたらと考えています。とはいえ、私は興味の幅が大変狭い人間なので、どうしても、エレクトロニクスやエンタテイメントでの事柄になってゆくと思います。少しでも楽しく読んでいただけたらと思っています。
そんな経緯もあり、掲載の1回目は少なくとも先日広田さんに「それ面白いです」と言ってもらった話題をとりあげて書いてみようとおもいます。それは、「バーチャル(virtual)」という単語と、その日本語訳としての「仮想」という単語との、ニュアンスの違いについて、になります。
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きっと、PANORAを読んでいらっしゃるみなさんは、「バーチャル(Virtual)」という言葉を口にしたことがあると思います。なにしろ、もしV Tuber(ブイ・チューバー)という言葉を口にしたとしたら、それは、バーチャル・ユーチューバーの略のはずですし。これは、ずいぶん以前にキズナアイさんがおっしゃった名乗りから始まった言葉と聞いています。
そして、この「バーチャル」と言う言葉。訳語としての「仮想」という言葉と共にここ10年でずいぶん聞くようになりました。アニメやマンガでも、「仮想空間」などの言葉もよく出ますが、少なくとも私が子供の頃には聞かなかった言葉です。そして私はこの言葉を日本で聞くたびに、その訳語として充てられている日本語での「仮想」という言葉の持つ響きと、おそらくそこからさらに広がっているであろう日本語としてのニュアンスに少し「うーん」と思うことがあります。
Googleで、このvirtualという単語を検索するとオックスフォード辞書での説明も表示されます。それにはまず “almost or nearly as described, but not completely or according to strict definition.”(意としては「ほぼ、あるいは、近しいのだが、完全ではなかったり厳密な定義通りではない」あたりでしょうか)次に、コンピュータ用語として“not physically existing as such but made by software to appear to do so.”(「ソフトウェアで、そのように見せて非物理的に存在する」という意かなと思います)とあります。そして、類語としては、「in effect」(事実上、実質的には)、「essential」(重要部分、必要部分)とも表示されます。
同時に、同じくgoogleで上位にでる英辞郎 on the web(アルク)の英和辞書でも上記の内容に近い表現がまず表示され、次に<<物理>>という項目として「仮の、仮想の、虚の、虚像の」と表示されます。「虚」「虚像」というのもなかなか強烈なイメージを含んだ言葉ですが、ここで、「仮想」という言葉が登場します。
もちろん、virtualという単語と、仮想、という言葉は意味合いとしては繋がっているとは思います。ですが、どうも現代日本語での「仮想」という言葉の、特に「仮」という一文字がよくないのか、仮、つまりは、「本物ではない」「かりそめのもの」「リアルではない」という強めの連想を日本語話者の中に生んでしまっている気がします。しかも、「見せかけはあるけど本物ではない」のような概念やイメージはそれなりにドラマチックで強烈です。
ですが、オックスフォード辞書での表示の順番にもあるように、英単語でのvirtualが含む第一の意味は、「本物ではない」「仮のもの」というものとは、少し違います。とはいえ、「本質として」「実質」のような意味合いあってもそのままずばりの一言は私には思いつけません。日本語にそのままのニュアンスというか、単語の「気持ち」を表現できる言葉がないということであっても、違う言語なのですからそれは当然起こることです。
バーチャルリアリティ(virtual REALITY)という言葉を私たちが「仮想現実」という文字に置き換えてしまえば、その漢字の並びから連想する意味合いとして「仮の現実」「本物ではない現実」と受け取ることもできます。ですが、別のとりかたとしては、「(そのものではないのだけど)本質としては現実」「(視界としてはCGだけど)実際の役割としては現実」という解釈もできるようです。私としては、こちらのほうが言葉としてはこのvirtual REALITYという言葉の本来的なニュアンスに近い気がしています。
故に、例えばバーチャルなんとかという言葉に対しての「つまりは、偽物」「だから、本物じゃない」という連想ではない、別角度での理解も可能なようです。例えばVTuber(バーチャル・ユーチューバー)という言葉に対して、それを「生人間ではないCGのガワを被ったフィクションの存在がYouTuberをやってる」ではなく「実写映像であろうとなかろうと、『個』としての本質は備えているから存在しているYouTuber」という理解をする、というようなことかと思います。
このことを少し拡大して考えてよいなら、これは何かに向き合うとき「ない」「足りない」を指摘し数えて「だから、違う」となにかを認識することと、逆に「本質部分はある」「この部分は足りている」ことを心に入れて認識すること、その違いのことでもあるでしょう。そして、言ってみればこの「認識の一歩目」の違いは、そのどちらかを思う人のそこから先の意識や思考、認識の転がり方も大きく決めてゆく気がします。
言い換えれば、これは「違いをいう」、あるいは「認め受け入れる」の分かれ道です。あれは偽物でこちらが本物なの、と言いたがるような思考と、違いはいろいろあるけど大事な部分はちゃんとあるね、という思考の違いです。私は、この「virtual」という言葉への向き合いかたの違いには、今後の人類への大変な示唆や課題が埋まっていると考えています。
なぜなら、私たちはこれから技術が更に発展する世の中で、これまでにない体験を更にしてゆくからです。従来のどの言語でも表現できないことにすら、もっともっと直面していくでしょう。しかも、今後は十分進化したAIの手も借り、彼らと助け合い共に進化してゆけるならその速度は更に早くなります。
その途上であるはずの今において、では、例えば「VTuber」という以前なら考えられなかった新たな在り方や、そんな新しくて未知のなにかに向き合うとき、私が「こうありたいな」と思う姿は、明らかに「認め受け入れる」という視点を持つ身のほうです。おそらく、あなたもそうなのではないかと思います。
一説には、virtualという単語への「仮想」という訳語を実質上広めたのは1970年代のIBMである、とも言われています。当時彼らが日本で大型コンピュータを売っていく際に、すでに大型コンピュータの中で実現されていたバーチャルマシン(virtual machine,VM)という概念に、「仮想マシン」という訳語をつくったのが始まりという説です。実際、私はその当時の日本IBMによる関連用語の訳語集を確認したことがあります。そこには「仮想」という言葉が多く使われていました。
もしこの説が正しいとしても、その訳語を当てた功罪がどうこうなどというつもりはもちろんありません。ですが、この「仮」という一文字から「本質的には」という連想を自力で行うことは現代日本語の話者には相当難しい気もしますから、もし、このvirtualという言葉のニュアンスのうけとりかた、大きく言えばこの言葉への「認識の一歩め」が気に入っていただけたなら、これを意識して「Vtuber」や、いろんな、バーチャルなんとか、という言葉を感じ向き合ってゆけば良いのだと思います。私はそう努力しています。
このコラムは週間で掲載とのことをいただきました。どう続ければいいものかと思いますが、今回の内容はいわば「仮想現実」というある種キャッチーな言葉が引き起こしていることについてですので、次回は、最近よく思うことのひとつである「キャッチーな言葉、には気をつけないと」ということから始めようとおもいます。
それではまた次回。
●著者紹介 鈴木直大(すずき なおひろ)
1970年生まれ。現在、英国セントアンドリュース大学(University of St Andrews))大学院 (神学)に在学中。並行して某キャラクタビジネス企業グループにて研究職・プロデューサー。
立教大学文学部卒業後、ソニー株式会社(現、ソニーグループ株式会社)に入社。主に商品企画を担当し、その後設立した自社事業ごと株式会社バンダイナムコエンターテインメントに入社。同社プロデューサーとして操演型CGキャラクタライブシステム(ツーエックス方式)を立ち上げた経験から「物理としては居ない『なにか』の存在を感じる」ことに関わる「実存感」という概念への気づきを得て、研究と発表を続けている。