ホロライブ・星街すいせい「ビビデバ」MV、1万字解釈  否定されるシンデレラ、そして彼女のストーリー

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2024年3月22日にホロライブ所属・星街すいせいからリリースされた「ビビデバ」が、大きなインパクトをシーンに残している。

楽曲リリース直後からSpotifyApple Musicなどのストリーミングサイトで再生されつづけ、さまざまなプレイリストやヒットチャートに入りこみ、その影響度の強さを浮き彫りにさせた。

そのヒットの要因となったのは、同曲のミュージックビデオにある。公開してから時間が経つごとに海外視聴者にも届いており、ホロライブEN・IDといったホロライブが既に活動している北米・東南アジアを中心に大きく広がっているのだ。

その結果、同局のミュージックビデオは1000万回再生を突破、それもVTuber歴代最速となるスピードでの達成、約16日あいだで樹立した。MV制作したのは、TOOBOEやずっと真夜中でいいのに。、「POKEDANCE」などの映像も手掛ける映像ユニット・擬態するメタである。アニメーションと実写映像が折り合ったオリジナリティある内容は、国籍などを超えて多くの視聴者の目をひきつけたのだ。


さてその内容なのだが、一目見るとエンターテイメント性にあふれた内容に圧倒されつつ、深く考えてみると非常に示唆に満ちた内容になっていることに気付かされる。さまざまな情報がパラレルに進行しつつ、さまざまな要素が結びつきあって生まれるエネルギーが、本作のヒットにつながったのだ。

そのエネルギーとはつまり、拡張と変幻・同調と同居・対比と更新によってもたらされている。ホロライブが誇る最高のシンガーの歌声・メッセージが徐々に世界に広まりつつあるいま、そのエンターテイメントにいくつかの補助線をひきながら読み解いてみよう。

簡単にまとめるとこのような流れだ。

・アニメーション技法・モーションキャプチャーと共通性ある技法によって編み出された<拡張と変幻>のアニメーション作品

・過去にもホロライブタレントが見せていたような「バーチャル」の在り方を問いかけ直す<同調と同居>のメッセージ

・「シンデレラ」という名作ストーリーのイメージ・メッセージと自身のライフストーリーとをかけ合わせた<対比と更新>の星街作品

わずか3分にも満たないこの音楽作品について……1万字ほど書いてみた。


拡張と変幻:モーションキャプチャーとロトスコープ

まず見る人が驚くのが、実写映像とアニメーション映像が結びつきあったその映像にある。MV「ビビデバ」の内容を改めてみてみよう。

夜の草原のなか、カボチャの馬車の前でドレス姿へと変身する星街すいせい。いつもと違った描かれたアニメーション、そこから一気にテレビ画面があらわれ、テレビ画面ごと右へとズレていくと、撮影スタジオが登場する。

星街はこの撮影スタジオで、なにかしらの撮影をしているようだ。カリカリしている監督、急いで後方の背景を消して、次のシーン撮影の準備へと進むスタッフ。カメラがぐいっと右に動くと、アニメ調に描かれた男性俳優がスタジオ内に現れ、メイク担当スタッフがペンを使って体の上から衣装を描いていく。

カリカリしている監督はスタッフにパワハラ気味に詰めつつ、星街とはこんな会話をしているようだ。


「こう、足をあげてキビキビと踊ってくれよ」

「いやムリですよ!この服で、しかもガラスのハイヒール履いてるんですよ?!」

「ああもう、とりあえずやれぃ!」

そうして楽曲がサビに入ると、きらびやかな照明と宮殿の舞台のなかで、みごとなクラシックダンスを踊る星街と王子役の男優。そこからストリート系のメリハリのあるダンスを踊っていけば、監督・スタッフもニコニコとした表情で楽しむ一幕も……。

だが、案の定踊っていた勢いでおもわず後ろに倒れ込んでしまう。せっかくいい感じで撮影が進んでいたのに主演女優が倒れ込んでしまったのだから、監督の怒りも頂天に昇っただろう。星街のマネージャーに怒鳴り散らす、おそらくこんな調子で。


「なんだあのタレントは!ダンスひとつしっかりできないで!どんな教育してんだ!」

「ちょっと!さすがに頭を殴るのは良くないんじゃないんですか!?」

「なんだおめぇ!口答えする気か!?」

「無茶な要求ばっかりしてるのはそっちよ!この◯×△!」

「なんだおめぇ!(脚本を投げつける)」

「な!よくもやったわね!(ガラスのハイヒールを投げる)」


このような口喧嘩のあと、監督は星街に猛突進。光景を捉えていたカメラが吹っ飛び、ほぼ正反対となるがケンカの一部始終を捉えつづける。

現場の雰囲気と監督の対応に飽き飽きした星街は、自身の私服であろう上着とカメラを持って、撮影スタジオの外へと飛び出す。そして、監督にはまともに踊れないとすら思われていたであろうストリートダンスをバッチリとキメてみせて、MVは終わりを告げるのだ。

こういった本編内容だが、実際にはどのような映像制作がされているのだろうか。おそらくの仮定の話ではあるが、ここではスタジオ中で演技している映像と、モーションキャプチャーなどを着て撮影された映像を元に描かれた2Dアニメーションを合成(コンポジット)しているのだろう。

そういった少し難しい手順を踏みつつ、ワンカットで撮影された(かのような)映像となっているのも、このMVの高品位さを伺えるだろう。

一般的に、モーションキャプチャーを着て撮影された3Dデータは、そのまま3Dモデルへと変換される。VTuberの路線で考えれば、3D制作されたグラフィックを当てがい、頭・肩・手首・腰・膝・足首などの関節を中心に違和感がないようにマッチングさせることによって、3Dグラフィックの特製ビジュアルを持った存在として表現することになる。

じつはこの「ビビデバ」のサビで見せているストリートダンスに関して、モーションデータが正式に配布されている。このデータを実際のMVで使用したかはわからないが、2Dアニメーションであるはずのダンス・動きに対し、3D用モーションデータを提供するあたり、2Dと3Dのかけ合わせに注目していたことを示している。

このMVで注目を集めているのが、ロトスコープという技法である。簡単にいってしまえば、撮影した人物・事物の動きや輪郭を、1コマ1コマ丁寧になぞっていくという手法だ。参考図書として、細馬宏通さんの「ミッキーはなぜ口笛を吹くのか ―アニメーションの表現史」(Amazonアフィリエイトリンク)などを中心にして、その歴史をカンタンに振り返ってみようと思う。

この手法は、1915年ごろにアメリカのマックス・フライシャーによって考案された。当時は現在のように映像を拡大する方法などはないため、マックスは自分に向けて映像フィルムを後ろから映写し、そこにトレース用のペーパーを置いてなぞっていくという方法を思いついたのだ。

手元にはフィルムを1コマずつ先送り・巻き戻しできる用の取っ手が用意されており、なぞり終えたら1コマ先へ、なぞり終えたら1コマ先へと静かに作業ができる。想像すると目が痛そうだが、マックスは自身の兄弟に協力を仰ぎ、専用の制作システムを構築、この手法で特許を取得した。

さまざまなアニメーション作品を制作したのち、特許が期限切れになると、ウォルト・ディズニーがロトスコープの技法を使って、さまざまなアニメーションを制作していくことになった。「白雪姫」「眠れる森の美女」、そして今作でモチーフとなった「シンデレラ」でもロトスコープが用いられている。

マックスが生み出したロトスコープという手法はアニメーション作品の技法としてはかなりポピュラーな手法であり、最近では「悪の華」「花とアリスの殺人事件」などで取り入れられている。

マックスがこの手法を導入した際、当時は第一次世界大戦の真っ只中ということもあり、ロトスコープは軍事教育のアニメーション制作に使われたという。その後「インク壺から」などのアニメーション作品をマックスは産み出していくのだが、そこでマックス自身はロトスコープという技法に対して「精確さ」よりも別の意味を見出したようだ。

「絵にトレースする時、画力のある描き手なら、写真の輪郭を忠実になぞるかわりに、写真の最低限重要な線だけを活かしておき、あちこち誇張したり、特定の部分を入れ替えたり、グロテスクなキャラクターに描き変えることができる」

マックスはロトスコープの特許出願書にこのような文を記したという。つまりマックスは、ロトスコープという技法を「描写する」だけではなく、「変幻させていく」ことに想像を巡らせていたのがわかる。実際の世界にはいない存在を創造するための技法として、生みの親は期待を込めていたのだ。

さて、今作のMVに戻ってこよう。

察しの良い読者ならお気づきだと思うが、3Dのモーションキャプチャー技術とロトスコープは、非常に近しい技法であることがわかるはずだ。モーションキャプチャーは「体中につけたセンサーを使って3Dルックなビジュアルをかぶせていく」、ロトスコープは「演技者の動いている姿を映像に捉えてコマ送りにして上からなぞっていく(イラストレーション化)」、実際の身体をアニメーション化していくという点で、モーションキャプチャーはロトスコープという手法・要点をとらえた後継の技術として見ることができる。

3Dビジュアルを持ってさまざまなライブアクトをこなし、美声を響かせてきたVTuberーバーチャルタレントである星街すいせい。このMVではそんな歌姫・タレントを創出するために、アクターを撮影し、線をなぞりつつ、「星街すいせい」という存在を創造していくのだ。

2つの同系統な技術を組み合わせたミュージックビデオ「ビビデバ」は、アニメーションの歴史を批評的に捉えたトライアルといってもいい。


同調と同居:現実とバーチャルの接地面はどこにある?

ではそうして描かれた星街すいせいは、アニメーション世界の住人なのだろうか。
筆者の答えとしては、断じて違うと言いたい。

ヒントはMVを捉えているカメラにある。
このカメラは前方と後方をうまく捉える360°カメラであり、カットごとに前方後方へとグルグルと動き、星街すいせいをはじめとして監督役・スタッフ役・共演者役・マネージャー役の人物を捉えている。

いったんMVを順々においかけてみよう。最初の撮影カットを終えたタイミングで、3人のスタッフが入ってきて、ペイントソフトの消しゴムツールのような技術を使って背景をかぼちゃの馬車/夜景/草原と描き変えていく。

次のカットでは、王子様役の男性俳優の衣装をペイントで上から描いていくわけだが、「アニメルックな男性俳優を、実写の人間が、ペイントツールでアニメルックな衣装をイラストしていく」という、パっと見では意味のわからない状況が生まれている。

そのまま後方へとカメラを向ければ、「いやぁ、そうじゃねぇんだよなぁ……」と言わんばかりの苦い表情を浮かべる監督役を含め、撮影スタジオの風景を捉えている。スタッフが背景を描き終えると、まさしくアニメーションらしい作画タッチのシンデレラ城がそこにはあり、星街とともに踊るキャスト陣がアニメ調の姿となっている。

見ての通り、このMVは「とあるスタジオ内で撮影されている」のが分かる。
どこでもドアのような秘密道具を使っているわけでもなく、同じ建物のなかで現実世界とアニメ調の世界が「同居」「同調」していることを意味している。

もっといってしまえば、星街をシンデレラとして据えたであろうビデオ撮影、その背景はたしかにアニメーション調に描かれているが、「実際の世界のなかで描かれ、撮影されている」のだ。それも、ロトスコープやモーションキャプチャーのように「上からなぞったり上書きしていく」ような手つきで。

バーチャルとは、仮想・架空といった意味に捉えられがちだが、本来の意味は実質上・事実上といった意味になる。いまのバーチャル界隈でいうのであれば、バーチャルとは「拡張する・拡張的」「延長線上」といった意味合いで使われることが多い。

星街すいせいを「シンデレラ」のストーリーで描こうとしたから、撮影時も彼女に合わせてアニメーション調に描こうとトライした……そんなふうに捉えることができるのだ。

ところで、ホロライブ所属のメンバーが主体になったMVで、同じように現実とアニメーションが同居・同調したMV作品は、今回が初めてではない。ホロライブのファン・リスナーならばすぐにあの作品だと思い出せるはずだ。

白銀ノエルの「リリカルMonster」である

とある撮影スタジオ裏でふらっと現れた白銀ノエルを捉えるカメラ、「ふぅ」と一息ついて正面を向くと、そのまま撮影がスタートする。どうやら撮影スタジオを使ってのMV撮影のようだ。

アップテンポなサウンドにぴょんぴょんと軽く跳ねながらノッて、舞台セットを歩いていくノエル。ポップで色鮮やかなセット、飛び込んでくるボールや走っていくおもちゃの車、さまざまな角度から捉えるカメラワークなどは、とても心地よい。

そんななかで徐々に画面にノイズが走り始め、大きなノイズがいちどバチッと入った次の瞬間、撮影スタート直前まで巻き戻ってしまい、ノエルが前を向いた瞬間に撮影がスタート、2週目が始まる。

リスタートはしたものの、すこしだけスタジオの様子がおかしい。さまざまな小道具が空中に浮かんでいるままで、よく見るとタイトルロゴも文字が正反対になっている。ノエルに向かって飛び込んできたボールは壁にぶつかった瞬間にめりこみ、大きさが大小にグシャグシャと変わっていく。

様子がおかしい撮影スタジオのなか「へぇあ?」という表情を浮かべながら撮影を続ける白銀だが、ノイズが大きくなるにつれて徐々に小道具やギミックの暴れ方も大きくなっていき、大きくなった物体に体をどつかれ、空から降ってきたアヒルが自分の頭にぶつかり(彼女ならば”アヒル”に襲われるのはオッケーかもしれない)、1周目の撮影ではしっかり書かれていた歌詞表現も、2周目となったこの撮影では文字化けしてしまいしっかり読めやしない。

そのまま再度撮影直前まで戻ってくるノエル。楽曲はここで2番目まで終え、ラストのサビ直前のCパートを歌っているタイミングだ。

「ホントはね、こんなに文字数多くなると思ってなかったんだけどさ どんだけ前回からガラっと変えてくるのよ?って思った人いるでしょ? 誰がイチバン驚いてるって、団長だからね!」

これまでと同じように3度目の撮影がスタートすると、ギミックや小道具が暴れすぎたおかげで、舞台セットは崩壊寸前。舞台の壁がつぎつぎと倒れ込み、よくみると撮影スタジオの骨組みもみえるほどだ。

飛び込んでくるギミックを手で払いのけ、上から落ちてきたメイスを手に持って、さまざまな小道具や舞台装置をはねのけながら歩みを進めていくノエル。

ギミックはコミカルに動き続け、体にノイズが多少入りながらもノエルは撮影をつづける。すべての舞台セットが無くなって露わになったスタジオ、彼女にカメラがギュンと近づいて大ラスを迎えた瞬間、一気に演出が消え去り、グリーンバックの壁と現実のスタッフが現れる。

現実世界のスタジオで数秒ほど3Dビジュアルのノエルはピョンピョンと跳ねるが、スタッフが右から左と通過すると、彼女の姿は消える。3Dスタジオとスタッフの姿を引きながら捉えるカメラ、そして目の前にカチンコが現れ「撮影終了!」このMVは終わるのだ。

このように見てみると、3Dビジュアルと現実世界というメタ的な視点に立っているのがわかる。
要は星街の「ビビデバ」MVと同じで、現実世界の拡張・延長線上(バーチャル化)によって、白銀ノエルはスタッフと共に撮影していたという視点を与えているのだ。

3Dエフェクトがおかしくなっていくなかでも、そのままグリーンバックの撮影を終えて自身が消えたとしても、あくまで「私は現実世界のなかで撮影作業をし、演技をしていた」という事実を強く印象付けてくれる。

さすがに「白銀ノエル」本人であろうモーションアクターを映すという野暮なことはしていないが、ノエルは3Dビジュアル、星街はロトスコープとVFXを使ったアニメーションと、描かれ方は違えど、「私は現実世界の中にいる」ということを意識付けさせようと試みているMVなのだ。

星街の場合はその点により意識的であり、実写・アニメ調が混在していた撮影スタジオを飛び出し、なんでもない路上でひとりストリートダンスをし始める。撮影スタジオという箱庭を脱し、いざその世界(現実)でもこのビジュアルでやっていこうというメッセージをここには感じられる。

アニメキャラクタールックなビジュアルと世界観が現実世界と「接続している」のではなく、そもそも醸し出しているオーラをアニメーション調に描き出すことで「同居」「同調」して描く。バーチャルとは現実の拡張・延長線上にある、このMVはその意味と重みを内包しているのだ。


対比・更新:「シンデレラ」と「星街すいせい」のコントラスト

このように自身のビジュアルを拡張的に描き、現実世界との同調・同居がなされている本作のMV。そんな楽曲と「シンデレラ」との関連は目に見えてわかるだろう。

そのシナリオをご存じである方は多いだろう、このようなものだ。

シンデレラは父母と幸せな生活をおくっていたが、病気でお母さんを亡くし、お父さんが連れてきた新しい家族と一緒に暮らすことになった。

継母と連れ子である姉たちとともに生活をしていたが、つらい仕事をおしつけられたり、日々陰湿なイジメをうけるようになっていった。とあるとき、王様が自身の城で舞踏会を催すことになり、知らせを聞いた姉たちはドレスを着飾って出席していく。連れ子でありイジメられっ子だったシンデレラには「出席してはいけない」と注意、シンデレラの手元にドレスなど当然なかった。

ドレスがなければ仕方がないと思いつつ、とても豪華であろう舞踏会に思いを馳せるシンデレラ。彼女の前に魔法使いが現れる。魔法使いによってコージャスなドレスや化粧で着飾ったシンデレラは、普段の自分とは見違えるほどに変わったのだが、彼女を着飾った魔法は夜0時(日付けが変わった時)に一気に解けてしまうと伝えられ、それまでには必ず帰ってくるようにと魔法使いから注意される。

そのままパーティへと出席したシンデレラ。その衣装とルックスで出席者の目を引くなか、国の王子に見初められ、ともにダンスをしながら時を過ごす。数刻の心地よい時間を過ごしていたが、午前0時直前であると気づき、シンデレラは慌てて城を飛び出して家へと帰ろうとする。

急ぎすぎたシンデレラは、ガラスの靴を階段に脱ぎ落としてしまい、それを見つけた王子は靴を手がかりに国中を探すことになる。王子様と結婚がしたいさまざまな女性が次々と「靴を履く」のだが、一向にピタリと合う者が現れない。

「王子様がガラスの靴を使って女性を探している」という一報を聞いたシンデレラは、捜索の元へと足を運び、ガラスの靴を履くと言うまでもなくピッタリ。そのままシンデレラは城に迎え入れられ、王妃として幸せに生涯を過ごした。

「シンデレラ」は童謡として広く知られており、フランスの童話作家シャルル・ペローによって広まった。だが実際のところ、「シンデレラ」に似た類話は発祥元であろうフランス・ヨーロッパに限らず、国々によってあるのだという。

古くは古代エジプト、西アジア、インド、日本含めた東南アジア、そして南北アメリカなど。世界各地にある”シンデレラ譚”を収集・分類していくと、その数はヨーロッパだけでも500話以上あるとされ、その話型もさまざまある。

重要なのは、そのバラエティの多さではなく、ここまでバラエティが増えてもなおブレない「物語のコア」たる部分だ。

少なくない者にイジめられて理解されていない美しく従順で家庭的な娘が、誰かしらの援助をうけて(自身の努力ではなお)、自身のの美しさを表現し、理想的な男性と恋に落ちて、あらたな生活を謳歌する。

これが物語のコアたる部分である。ストレートに読んでみると、「女性にとっては美しさと従順さが、社会階層において下流であり、苦境に陥った生活から抜け出す手段である」というメッセージを感じられるはずだ。実際にこのメッセージ世代を越えて届いており、ある意味では「女性の美徳としての刷り込み」すら感じられるほどだ。

より優しくソフトに言い換えるならば、「じっと根気よくタイミングを待ち続けて王子様(救われること)を待っている」ということであろうか。これはなにも「社会階層が下流である」「逃れられないほどに苦境である」といった部分からは外れるだろう。自身の人生を自分で決めたいという気持ちが強く、実際に自立しているような女性にも当てはまる。

「誰かに助けてほしい」という潜在的願望は誰しもが持っている。その願望を拭いきれぬまま、葛藤や責任回避などさまざまな要因が混じりあって、ある種独特な心理状況を生み出す。これを「シンデレラ・コンプレックス」とも呼ぶ。

もっと俗な話をすれば、まったく見向きもされなかった女性(自分)が殻を破るかのように大きく変化し、成長や幸せを手に入れ、いつの間にか考えられないような資産や名声を手に入れることを、「シンデレラ・ストーリー」と言うことがある。

このようにさまざまな良し悪しを与えながら、「シンデレラ」というイメージは多くの場面で使われるようになった。これは日本のネットカルチャーでも同様で、「シンデレラ」という言葉・イメージを使った音楽は非常に多く、苦境に耐え忍びながら幸運と巡り合うことを願って生きていくというイメージは、多くの女性にとっての恋愛・成長イメージに沿うものとして描かれてきた。

そんなシンデレラのイメージを、星街すいせいは軽やかに否定しようとする。

監督からあれやこれやと指示されて「演じさせられる」ことに嫌気がさした星街は、監督に逆ギレ。静止を振り切ってスタジオの外へと飛び出す。

撮影スタジオの中で「シンデレラ」を演じることに努めていた彼女は、アスファルトの地面の上で自由にストリートダンスを踊り、そのままスパッとMVは終わる。

そんな「ビビデバ」を読解するために必要な補助線がもう一つある。星街すいせいはファーストアルバム「Still Still Stellar」からのリード曲「Stellar Stellar」だ。そのなかで彼女はこのような歌詞を歌っている。

「そうさ僕は 夜を歌うよ Stellar Stellar ありったけの輝きで 今宵音楽はずっとずっと止まない そうさ僕が ずっとなりたかったのは 待ってるシンデレラじゃないさ 迎えに行く王子様だ だって僕は星だから」

「僕」という主格にリスナー自身の心を当てはめると、ただの凡人に勇気を与えてくれる1曲だとすぐに気づくだろう。受動的ではなく能動的に、シンデレラ役じゃなく王子様のようにアクティブに生きていきたいと歌っている。

そもそも星街すいせいはホロライブからデビューしたのではなく、一介のフリーランスとしてデビューしている。「個人勢」と呼ばれるもので、彼女は自身のキャラクターデザイン、Live2Dビジュアルの設定、動画の編集などをすべて自身で行なっていたのは有名な話だ。

その後、ホロライブに当時設立されていたレーベル・イノナカミュージックに所属、そこからホロライブへと転籍することになった。現在ではシンガー/配信者としても活躍のフィールドを広げているのだが、彼女が苦労人であることも伝わるだろう。

星街すいせいは「Stellar Stellar」で、「幸運を願う待ってるシンデレラ」ではなく「迎えに行く王子様」であると自身を形容している。ドラムンベース系統のグルーヴにノって、シンドロームもストーリーも置き去りにするくらいのとてつもないスピードでリスナーをふっ飛ばしてくれるのだ。

実際は星街自身が朝がかなり嫌いで、「朝起きて仕事行きたくない」「学校行きたくない」「明日が来ないで欲しい」と思ってる人を勇気づけられるような一曲にしようと考えて制作したそうだ。ここで描かれている「僕」という主格は、もちろん星街自身のこと。そう読み解くとかなりパーソナルな1曲であることもわかってもらえるはずだ。

こうしてみると、星街すいせいにとって「シンデレラ」という言葉・イメージを使った形容は、この曲ですでに一度達成され、ファンにもしっかりと受け取られていると気づくはずだ。

ではなぜ、「ビビデバ」のなかでもう一度「シンデレラ」というイメージと形容をしたのか。つまるところ、星街すいせいという女性・イメージの再更新が一番の理由であろう。180度一気にキャラクターが変わるからではなく、「Stellar Stellar」と同じ系譜・DNAをもった楽曲をもう1曲増やそうという狙いがあったと思われる。

「Stellar Stellar」は星街すいせいのオリジナル曲でもかなりの再生数を叩き出しており、彼女のYouTubeチャンネルでは3700万再生を突破、Spotifyでも1500万再生を計測しており、「THE FIRST TAKE」に彼女が初めて出演した際に歌われている。この曲は、彼女の名前を広めるために大きく寄与した1曲であるのはいうまでもない。

そんな1曲と同じ系譜を意識させるために、「ビビデバ」は制作されたのではないか、筆者はそのように捉えているのだ。

改めて指摘するが、「ビビデバ」では自身を「シンデレラ」と規定することなく、アクティブかつフリーキーなバイブスを志向していることを提示しているのは明らかである。外様の意見や考えに流されることなく、自身の道を征くこと、彼女のバーチャルシンガーとして歩んだ険しい道のり・活動歴をフィードバックした楽曲として、「Stellar Stellar」の後継としての役割をしっかりと受け取っているのだ。

このようにみてみると、「シンデレラ」が漂わせているさまざまなイメージと自身とを対比し、ある種否定的な視点を挟みながら、彼女は「ビビデバ」を歌い・表現しているのがわかる。

・アニメーション技法・モーションキャプチャーと共通性ある技法によって編み出された<拡張と変幻>のアニメーション作品

・過去にもホロライブタレントが見せていたような「バーチャル」の在り方を問いかけ直す<同調と同居>のメッセージ

・「シンデレラ」という名作ストーリーのイメージ・メッセージと自身のライフストーリーとをかけ合わせた<対比と更新>の星街作品

この原稿では、拡張と変幻・同調と同居・対比と更新という3つのベクトルから読み解いてみた。わずか3分にも満たない「ビビデバ」の音楽と映像には、さまざまな表現・狙いが隙間なく詰め込まれ、それらが迸るように絡み合い、非常に大きなエネルギーとなって発揮されているのだ。

 
 
(TEXT by 草野虹

 
 
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