#15 長瀬有花 内省とゆるふわで描かれた”間隔の感覚”という音楽【Pop Up Virtual Music】

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長瀬有花は、RIOT MUSICに所属して活躍しているバーチャルシンガーであり、2020年9月16日にデビューし、4月16日に自身初のオリジナル曲「駆ける、止まる」を公開すると、注目を集めてきた。

これまで自身のオリジナルアルバムを2枚、コラボアルバムを1枚、オリジナルシングルを10曲リリースしており、加えて”長瀬ワールド”と形容したくなるようなオリジナリティ溢れる世界観を紡ぎ続けてきたことで、彼女への支持・注目も時とともに大きくなっていった。

2024年9月・10月には大阪と横浜を巡るライブツアー『effect』を開催し、2025年以降もその活躍が期待されているシンガーでもある。

もう一つ付け加えておきたいのが、彼女自身のライブパフォーマンス。こと「VTuber」「バーチャルシンガー」と目されているシンガーらがアニメルックな3Dビジュアルを重用するのに対し、長瀬は3Dビジュアルだけではなく彼女自身(フィジカル)を登場させて歌うことにためらいがない、むしろフィジカルでライブをしているというのが特徴的だ。

彼女のライブ活動初期から同じようなスタイルが取られており、ライブによってはフィジカルな自分とアニメルックな自分を行き来するかのようなライブをみせてくれ、こちらもまた彼女を特徴づけるオリジナリティともいえよう。

そんな長瀬有花の音楽性・フィーリングを、3枚のアルバムを聴きながら感じ取ってみようと思う。
なぜ彼女の音楽が、ゆるく、フワフワとし、穏やかさを波打っているのか。
そこには事も無げに置かれた“間隔の感覚”ともいうべき、無言の余白を感じさせているからなのだ。

「a look front」”間隔の感覚”を宿した無二の名作として

2022年2月17日にリリースされたオリジナルアルバム「a look front」は、彼女のデビューから約1年5ヶ月後に発表された1作だ。

その期間の間に「駆ける、止まる」「ずるいよね」「ライカ」「ハイド・アンド・ダンス」そして「とろける哲学」など、歌ってみた/カバー動画だけでなくオリジナル曲をミュージックビデオを通して公開しており、結果的に8曲入りの作品としてリリースされた。

いよわ、高城みよ、ねこみ、ねこむらと様々なトラックメイカーが今作に参加しているが、このファーストアルバムの時点で”長瀬ワールド”がかなり高い完成度をもってリスナーの眼の前に現れていることに、やはり驚かされる人は多いだろう。

歩く人による作詞・作曲の「Fake news」は、少し悲しきニュースが流れていくというインタールード的な1曲。自分からは少し遠い世界の話題のようでいて、実はかなり身近な話題。それをうまく実感して捉えることができないままでいるちっぽけな自分、センチメンタルとやるせなさを漂わせながら、このアルバムの幕はあがる。

楽曲の中で話題に上がるニュースは「フェイク」なものばかりでありつつ、実際にリスナーである僕らの世界で起こることではない。とはいえ、2010年代において「フェイクニュース」というと、事実とは異なる明らかな嘘/でまかせ/誇張を意味しており、時として社会全体・政治を動かすほどまでになったことを思い出してみよう。

そういった背景を頭に入れれば、この曲で語られている「Fake News」は、SF的なテクスチャーで遠い世界のよう。自分の手から離れたものばかりであり、なんだかとてもほっこりとした優しい感触すら残してくれるものばかりだ。

2曲目は高城みよ「駆ける、止まる」。「Fake news」で流れる心温まってしまうような優しくもセンチメンタルな話題は、自分の手のなかには何も実感が残らないという実感をハッキリと示している。

心のなかで感じ取れる触感・手触りを求めて、少女は、駆け、まわり、起き、なぞって描くことになる。

なぞる 描く
気の赴くまま
新たに 生まれた
偉い人は笑う
誰もが定義されている
世界の隅で
私は答えを求めている

虚実が混ざり合ったかのような今の世界で、答えや実感を得たいと彼女は歌う。結果、楽曲の最後には「一つ二つ進むたび分からなくなる」と少し悲壮感を漂わせて終わるのだが、この後に続くのが「とろける哲学」だ。

グリッサンドして低い音へと動くベースライン、ドラムスはシンバルとキックドラムによってカウントを取るようなドラミングと、少しルンッとした音で弾かれる鍵盤で始まる

この曲で特徴的なのは、陽・月・宇宙という空の向こうにある形ある事物、くらくら・まろやか・やわらか・ときめき・いとしき・ふやけ・とろめきといった感覚的で曖昧な形容詞、そしてそれらの語句を比較や形容として用いながら、「感覚」「心」を語句としてほぼ使わずして遠巻きにニュアンスとして伝えていることにある。

この3点は、それぞれがアヤフヤなフィーリングで象られながら、 自分自身・そのなかにある心の輪郭・宇宙規模の空間が、一つの世界の中で同居している(繋がれている)ことを表現しているのだ。

サビに入る前、あの有名なフレーズはその最たる例だろう。

陽を飲んで 月蹴って
ここどこだ
宇宙さ
あれ、ねこだ

宇宙の視点から一気に自分の足元にまで視点と視野が落下していくスピード感。その跳躍(いや落下か)は、ユーモラスなサウンドと緩やかな言葉遣いによって編まれた歌詞だからこそだろう。何より、1曲目2曲目で穏やかかつ漏れ出ていた冷たい世界観から、この曲で打破することになる。

猫のように愛くるしく優しいサウンドとともに、その後も自分と宇宙の距離感を見つめつつ、今の人生・生活・社会の中にポツンといる自分を描写している曲がある。いよわによる「オレンジスケール」だ。

走る、走る
猫が走る
でたらめなハミングを聴いてる
日々が増える
増えてって
おなかが減ってく
心の中で温めている
自室と宇宙のスケール見つめてる

ネコの身体的な動きから、目には見えない音波の響きをでたらめながら感じ取り、時間経過とともに胃腸の変化に気づき、次の瞬間には内面的世界、そして自室から銀河へと想像を巡らせる。

意識を向けるベクトル・対象をコロコロと変えながら想像が跳躍していくさまは、ハッキリ言ってしまえば論理的ではなく、直感的なソレだ。そこには事物同士の距離感や感覚など一切ないかのようであり、それがゆえに隙間のように開いた感覚が残る。

散文的で不可思議な連なりを綴った歌詞と言葉の数々は、作品を通して編まれた柔らかなエレクトロニカ・サウンド、なにより長瀬本人の愛らしいふわっとした声によって、違和感なく自然なものとして……”間隔の感覚”を表現しているのだ。

また長瀬のボーカル・声色も、発音・発声・声量が明瞭すぎたり大きすぎれば柔らかさが損なわれてしまうし、声色が可愛すぎてもカッコよすぎてもクールすぎてもいけない。卓抜としたボーカルテクニックを備えてしまうと逆に難しいだろう”自然体なボーカル”によって、今作は完成されている。

もしかすればこういった作品を、ファーストアルバムだからこそ生まれた1枚と形容すべきなのかもしれない。

「OACL」「Lunchvox」とつづく”自問・内省”と”ゆるふわ”との間隔

つづいて彼女がリリースしたのが、Local Visionsとのコラボアルバム「OACL」である。

Local Visionsは、「ポスト・ヴェイパーウェイヴ以降のポップ・ミュージック」をテーマにしたインターネット音楽レーベルであり、2018年にsute_acaがレーベルオーナーとなってスタートし、2024年からTsudio Studioが共同オーナーとして参加している。

これまでbandcampを通じて多くのクリエイターの音源をリリースを続けており、Tsudio Studio、SNJO、Gimgigam、松木美定、upusenなどが音源をリリースしてきた。

ネットシーンにおいて世界的にカルトな人気をもっていたヴェイパー・ウェイヴのその後を動いていたLocal Visionsと、日本のネットシーンでもきらびやかな場所で活躍している長瀬有花の交差がもたらした結果といえよう。

さて「OACL」1曲目「Time Capsule」はスゥーっと広がっていくシンセサウンドのなかで、長瀬が詩を朗読し始める。

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)
これらは二十二箇月の
過去とかんずる方角から
紙と鉱質インクをつらね
(すべてわたくしと明滅し みんなが同時に感ずるもの)
ここまでたもちつゞけられた
かげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象スケツチです

https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/1058_15403.html

柔らかくもすこしおどろおどろしさすらあるサウンドのなかで、SFっぽいイメージを与えてくれる言葉の数々。
ご存じの方もいるだろうが、これは宮沢賢治「春と修羅」の序文に当たる部分である。

先程筆者は「詩」と書かせていただいたが、宮沢賢治は「春と修羅」を詩ではなく心象のスケッチでしかないと自身で評している。じつはこの「心象スケッチ」という手法・考え方・捉え方を巡っては後年多くの研究者や読者家の関心をさそい、さまざまな研究がなされてきた(それがゆえにこのタイトルが非常に有名になったともいう)

この詩で有名なのは、自分自身を「自分」と捉えるのではなく、「自分」は現象に過ぎず、照明のように、あるいは風景や周囲のものもおなじように、灯りのように明滅を繰り返しているのではないか?という自問・自省である。

「すべてこれらの命題は 心象や時間それ自身の性質として 第四次延長のなかで主張されます」と結んでいる。自身について深く考え、あるいは周囲の自然や行き来について書き連ねていく言葉にこそ、自分という存在を強く示すひとつの標となりパワーにもなる。そんなニュアンスや考えを広げているのだ。

このとびきりに深い視線と思想を、冒頭に語る長瀬有花。Mellow Blushによる作詞曲であり、しかもタイトルが「Time Capsule」というのがなんともニクイ。なにより、先程筆者が記した”間隔の感覚”という見立て・イメージに似通っている。

2曲目「気をつけて!」では、「遠くの方へ」「未来」「宇宙」と自分からみて遠い事象が段階的に連なっていく。それは「ずっと」「ちょっと」「そっと」という形容で表されながら、「やってきた(やってくる)」とやはり距離感が伸びたり縮んだりしている。しかもこの間、わずか40秒。たったそれだけの間で、自分自身と目に見えないものとの距離感(間隔の感覚)がグイグイと伸縮していく。

シンセサウンド・ギターカッティング・ストリングスがうまく混ざりあい、アタック感の強くないキックサウンドが伴ったアップテンポなシンセポップのなかで表現され、まさにきらびやかなイメージを聴くものに与えてくれる。

すこし腰を据えたファンキーなグルーヴが基調となった「Sleeper’s Store」や、あっさりとした鳴らされる8ビートに薄っすらとシンセサウンドが鳴らされる「さくらりら」では、「ゆらりゆらり」「ひいらりひら」「くるりくるりりら」「ふらふら」「らるらりら」といった言葉遊びでユーモアをにじませてくれる。

こういった楽曲では、たとえばEDMで聴かれるようなビカビカと光る稲光のような歪んだ音は好まれない。オールディーズな匂いを漂わせるちょっと古い、いわゆるローファイなイメージを伴わせたサウンドがキモになる。ヴェイパー・ウェイヴ以後のサウンドを模索するLocal Visions、彼らによってチョイスされたトラックメイカーらによる影響はもちろん大きい。

そこから数カ月後にリリースされたのが、セカンドアルバム「Lunchvox」である。パソコン音楽クラブ、佐藤優介、ウ山あまね、いよわ、mekakushe、笹川真生と、これまでよりも多士済済なトラックメイカーやシンガーソングライターが参加した今作は、よりそれまでのニュアンスを深化した1枚となった。

1曲目「近くて、遠くて」ではここまで記してきた”間隔の感覚”を象徴する1曲といえるものだ。

ねぇ、まだ眠れないよ
言葉じゃ掴めない気持ちで
理由なく落ち着かないなら
夜の街に溶けてみて
静まる都市と人の隙間
音が響いた

夜に眠れなくなってしまったひとときを「言葉じゃ掴めない気持ちで 理由なく落ち着かない」と表現する。そのなかで、夜の街(静まる都市)、そしてそこにいる人の隙間(空間)のなかで響く、形になることはない音の波。近いのか、遠いのか。掴みきれない距離感で発せられる音に、おもわず想いをはせてしまう。

それもパソコン音楽クラブによるトラックが、ハウスライクでありながらすこし忙しなさを感じさせてくれる内容というのも大きい。加工された長瀬の声が多重に響きつつ、ビート・クラップ・ベース音・シンセサウンドが 一気に まとまってグルーヴを加速させていくさまは、これまでの長瀬楽曲にはないヒリヒリとした緊張感を漂わせる。

2曲目「プラネタリネア」は前にツンのめるような拍子・リズムパターンの演奏とメロディラインが特徴的で、ウ山あまねによる「アフターユ」は逆に後ろにちょっと寄りかかっていきそうなグルーヴで、ふらりと歩いて聴くのにピッタリなシンセ・ポップだ。

火星と、金星と、木星には
とっておきの場所が私だけのために
ちょっと冷たい空気で隔てられた
部屋と外くらいの距離に見えるのに
どんな音がする?雨が来る?
肌に触れてから光る?
(「プラネラリネア」冒頭の歌詞)

馴染みだした空洞も触りたいのさ
きっと名前しか知らない まだ
通り過ぎてしまうくらいなら
迷路の外をもう一回だ
(「アフターユ」)

自分自身/ 自分の心の中にあるフィーリング/外の風景・光景という3つの分かれ、さまざまに言葉が重ねられていく、”間隔の感覚”とも表現できるフィーリングがそこには確かにある。

「ほんの感想」で現実から夢の世界へと入眠して起床するまでの物語をうたい、外を歩く自分が風景へ同化していく感覚に陥り、宇宙のブラックホールや神様へと想像が飛んでいく「宇宙遊泳」という2曲がつづき、本作はうまく着地する。

特に「宇宙遊泳」は、ドラムのビートだけでなくバッキングでギターのカッティングが淡々と鳴らされ続けられ、リズムレスにならないことでどこか地に足ついたフィーリングを残してくれる。そんなバックの演奏があるなかで、長瀬はゆるやかな声色で存在感を示してくれる。ただ外を歩いているはずなのに、それが「宇宙遊泳」へとつながっていく跳躍が行われるのだ。

自分の心、外の風景、そして自分自身との間に確かな間隔を感じ取りながらも、それを埋めるわけでも狭めるわけでもない。ただそこにあるものとして捉えながら、同時に自分の輪郭を知ろうとする。

こう書くととても内省的な営みに読めるかも知れないが、実際にはさまざまなクリエイターの手によってうまれたシンセポップ~エレクトロニカなサウンドに包まれ、長瀬特有のソフトタッチな声色・ボーカルがキラリと光るポップスへと昇華している。

孤独のようで孤独ではなく、寂しそうでいて寂しいわけでもなく、かといってすべてを忘れてしまおう!というほどに楽しすぎているわけでもない。自分自身を自覚しながら、その内面への想像や探求を惜しむことのない趣味人のような、コントロールや自制がかなり効いた醒めたポップミュージック。

長瀬有花の音楽とは、内省とゆるふわをパラレルに走りながら、”間隔の感覚”に根ざしたかくもシンプルかつ奥深いものかと思い知らされる。